家から学校まで20キロあまりを自転車で行ってみました。昔大学まで行ったことがあったのだけれどあの時は怖くて怖くてたまらなかった。でも今回は、歩道が広くてしっかり自転車も歩行者も通れるくらいの幅。いつのまにやら自転車にもやさしい交通政策が行われていたようであります。さすが、谷垣さん!(単に、ロードバイクに乗ってた姿をテレビで見ただけなんだけど)そんで、ついにヘルメットを買ってしまった!時間にすると90分くらいかな。でも、青山霊園やら、神宮外苑やら、白金やらを通過するのでのんびり走って楽しみながら走れたので、よかったです。毎日は無理だけど、これからもたまにやりたいな。
それにしてもすっげえ疲れた。体力が落ちていることを実感。
夕食でりんごを丸かじり。うまい。皮付きでまるかじりは久しぶりだ。
今日は久しぶりに友人らと話していたらディスカッションらしきものになったのだが、全然、うまく話せなかった。頭の中にあるイメージみたいなものを、綺麗に伝える、伝える以前に言葉に整理するというのはなかなか難しいものなのだということを再確認。いつの間にやらけんか腰になってしまっていたり、途中で投げ出したり、非を認めなかったり、笑ってごまかしたり、そんなことばかりじゃ、やっぱり駄目なのだ。
そんなことを考えつつ、百円ショップで自転車用のライトを買って装着した。安く抑えてやったと勝った気になっていたら、向こうからやってきた自転車の人、小さな懐中電灯を手で押さえてライト代わりにしていた。負けた。で、自転車をこいでいたらやっぱり雨が降ってきたのだ。
ソフトバンクモバイルが新機種を発表したのである。なんでもかんでも新しいものが出てくると嬉しいのだが、ソフトバンクが何してくれるか楽しみだったので、ちょっとワクワク!
ぼんやりしてるとニュースにおいていかれるのだ!さて、いかにして新聞を読まずにテレビを見ずにニュースを仕入れるか?それが問題だ!って見ればいいだけなのだが。
中吊り広告。時間に遅れは出るものの、かなりちまたで話題になっているものを知ることができる。
人の読んでいる新聞。これが結構役に立つわけで、朝読んでるのはみんな日経やら朝日やら読売やらなのであるが、じつはこれ、乗る路線によって読んでる新聞の比率が違うのである。面白い。夕方以降になると、いわゆるスポーツ新聞が出てくるのであって、これもまた面白い。「亀田!」と書いてあったら何があったのかと思ってしまうのである。
駅売店のスポーツ新聞の見出しも面白い。これはかなり高い確率で見ることができるのだ。これまた「亀田!」と書いてあったのだが、目の悪い太郎君は「亀井!」と読み間違え、あの国会議員の亀井さんがなんかすげえことをしてくれたのかとワクワクしたのでるが単なる勘違いで残念である。
そして、乗ってる人そのものから知ることもできるのである。例えば今日は、SMAPのコンサートがあったようだ。いつもなら座れる時間帯なのにも関わらず、大量の女性たちがわいわいがやがや乗っていて、みなそろってSMAPの袋を抱えているのである。普段、車両にどれだけ女性が少ないかを実感することができた。先日はマドンナの金色の風船をぶら下げている人がたくさんいた。気がついたのは、スマップのファンは、旧い携帯を使っている人が多い!いまだにムーバを使っている自分、自信を持てました。
娯楽施設が沿線沿いにある路線を使っていると、そんな楽しみがあるのだと、思ったのです。
今日はあんまりお腹が減ったものだから、そして外が大雨だったから、いつもは行かない食堂でご飯を食べようと思って食堂に行ったら、「カレーラーメン」なる予想外のメニューが並んでいたことにショックを受け、戦意喪失して帰ってきてしまったのだ。
カップヌードルにもカレー味があるし、カレーうどんもあるのだから、まずいことはないだろうが、そんなメニューがあるということが不意打ちだったのだ。
マックスウェーバーの講演集。薄い本です。昔読んだとき、何言ってるのか難しくて意味わからなかったのだけれど、こんなくだりがあった気がする。教授たるもの、教壇の上では政策を語るな、教師は指導者ではない、主張するならば批判を受けられる場で行え、といったものである。
そんな中立的なことばかり教えていたら、つまらない授業になるではないかと、そのときは批判的に受け止めていたが、それは彼の言いたいことがわかるような経験をしたことがなかったというだけのことだったのだ。
あとになってから、ああそういえば、と思える。そういう知識が大切なのかもしれない。
寝太郎なので僕は、気を緩めるとすぐ寝てしまうのです。今日は終点でおばあさんが起こしてくれました。なんか物凄く感謝。もう少し人にやさしく生きていこうと思いました。
元住吉駅が遂に高架になるらしい。鉄道工事というのは長い時間がかかるものなのですね。しかししっかりと計画を実行するあたりが凄いのだと思います。思えば田園調布も多摩川も、屋根すらないホームだったんだよなあ。日吉駅にもそろそろ地下鉄が通りそうだし、目黒線も気づいたら地下になってたし。実は色々なところで徐々に計画は進んでいるらしい。
そんなことにほとんど気づかずにすごしているというのも恐ろしいことだ。
目黒線に急行ができるという話、これは目黒線の駅が地下化されたときから推測可能だったのだ。なぜならホームが4つある駅がいくつかできたのだから。通過待ちができるように用意されていたのだ。
後になって考えてみれば、ここかしこにヒントは隠されていた、ということはよくある。
いつの間にやら、いろんなことが当然になっていたりして、気に留めることもなかったりして、気づいたときにはどうしようもないほど大きなことになってる、なんて、こともあったりして。
腹のたるみをつかみつつ、そんなことを思ってしまった。
今日から新学期であって、小学校以来、先生方のありがたい話を聞くという睡眠時間をいただきました。ありがたいかありがたくないかは寝てしまったのでわかりませんでした。すみませんでした。
学校の自由参加課外授業で、つくばにある種苗管理センターとジーンバンクに行って来ました。
これが最寄の駅「みどりの駅」

人っ子一人いない。久しぶりだこういうの。思わず指が写りこんでしまいました。
種苗管理センターでは作られた新種が新種と登録していいか検査するところで、ジーンバンクはこの世にある植物の種をひたすら集めまくって保存するというこれまた凄いものでした。その種は、普通にHPから買えるそうです。
みどりの駅からは他にも宇宙センターを見学できたり(これまた時間切れでいけませんでしたが)、なかなか社会化見学にはもってこいの場所みたいです。
つくばエクスプレスはなかなか面白く、途中の駅にもビール工場があって見学できたり(時間がなくて今日はできなかったけれど)、自然豊かで、しかも運賃が高い!のにはびっくり。まあ早いから。
ちょっと交通の便が悪いのが玉に瑕。車で行ったらもっと色々楽しめたかもしれないと、ペーパードライバーながら思いました。
ある自転車屋で、中古自転車がないか聞いてみた。そしたらその答え「あるにはあるけど55万…」すんません、聞く店を間違えました。それにしても新品だったらいくらするんだろうか。
今日は室内クライミングに再挑戦。そしてその後は飲み会。久しぶりに飲みすぎてハッピーになりました。
いかにして人は怠けていくかということを見事に見せてしまった。三行日記をやめようと決意し、一週間くらいは長めに書いた。そして、徐々に短くなり、写真などの画像でごまかそうとするにいたり、それすらなくなって一行。この経過、素晴らしいほどに人の心を物語っているようでならないのである。そしてここで罪滅ぼしに長々と書くと、そこまで含めて典型パターンにはまりそうなので、悪あがきするためにも、今日は微妙な量で書くのをやめよう。
それか、過去のブログに書き加えてごまかすか…
100円マックのメニューが増えたらしい…さっそく三角形のを買ってみた。
よくやるらしい。ドラゴン桜だったかあの漫画にもそんなことがあったらしく。で、読んでみた。関係あるかもと思って。
確かに勉強したことが実際に使われていて、教科書で知ってるだけじゃわかってるなんていえない、すぐぴんと来るくらいちゃんと勉強していないといかんのだなあ、と思った。そして、男の欲望ってのはひどいもんだと思ったのだった。
まだ最初のほうしか読んでません。
それにしたって、全然話し変わるけど、高松塚古墳、ひどいじゃないか!ボロボロ…

恵比寿にある麦酒記念館。400円でごらんの4種類が飲み比べられる。お勧めは手前の赤いビール。「メジャーエール」。美味です。
ほんと、秋になると雨が降って、気温もぐっと下がるのだなあ、と思ったのであるが、きっとそう思ってると急に暑くなったりするのも秋なのだろうから奥が深い。「女心と秋の空」なんて言葉があるらしいが、少なくとも、秋の空は変わりやすいというのは確かなようである。
今日は早稲田の近くの古本屋を廻ってきたのだが、最後におまけでは行ったブックオフの本が安かった。。。。価値がわからないお店のほうが安いというのもなんだか複雑な感じである。
「メンインブラック」というとサングラスにスーツの男二人がエイリアンと戦う映画のシーンの中で事件の真実を探るためにゴシップ紙を大量購入するところがある。まったくもって皮肉が利いているなあと思っていたのだが、更にもう一ひねりあるのかもしれないと思ったのだった。
嘘っぽいことばかり書いてあるからこそ、人の目を欺きながら本当のことを言えることもあるのかもしれない。ちびまるこの学級委員のまるおくんが「ずばり馬鹿でしょう〜」とか言ったら速攻でぼこぼこにされるだろうが、山田君が「大変だ大変だ。お前馬鹿だじょ〜〜」とか言っても、許されちゃったりするのである。
ちょっと違うたとえになってしまった…
真実の中に嘘が散りばめられている事もあれば、嘘の中に真実が散りばめられている事もあるのだろうと思ったということなのだ。
言葉を知らぬ若者とか言って大人に馬鹿にされる光景をたまに見かけるわけであるが、言葉自体を知っている癖して使い方を知らなかった大人のせいだと言いたい。と、ふと思った(笑)しっくりくる状況で、腑に落ちる表現を使ったならば、言葉は息永く生きていくのだと思う。逆に、すっきりと気持ちが伝わる言葉ならば、新しい言葉だっていいのだと思う。新しい言葉を作る者も、旧くからの言葉を使える者も必要である。
しかし一番大事なのはそもそも伝えたい内容があることだ。
中華料理ばかりは大人数で、回るテーブルをぐるぐる回しながら食べるのが一番だと思っているのだが、食べ放題に行くと、大人数じゃなくても色々なメニューが少しずつ食べられて結構お得であるのだということを、今日久しぶりに焼きそばを食べながら思ったのだった。
なんていってると、あの赤い中華テーブルにまつわる思い出を思い出してしまったりする。早稲田大学の前の商店街の端にあったちいさなお店。から揚げ定食が安くて、カクテキが食べ放題で、年取ったおじいちゃんとおばあちゃんでやってて、むすっとしながらよく小さな夫婦喧嘩しながらやっててて、料理は絶対、テーブルに載せて、回す!気を遣う必要のない好きな店だったんだけどな。建て替えでいつの間にかなくなってた。
セレブの時代だから、誰をも温かく迎える雰囲気のあるお店なんてもう時代遅れになるんだろうとかっこよくまとめようかと思ったけれど、結局のところそのお店が好きだったのは単に「カクテキ」が食べ放題だったからかもしれない・・・
記憶というのは曖昧なもの。
今日は月が綺麗だった。ビルの窓に写った月まで綺麗だった。いつだかテレビで"I love you"を「月が綺麗ですね」と訳した名文家の話をやっていたが、いまどきそんなのははやらないということで千円札から消されてしまったのだ。これはあくまで噂。
言葉というのは兎にも角にも回りくどい訳だが、それに頼らずして世界を認識することすらできないと考える人までいるのだからこれまたずいぶん大事なものなのである。そんなややこしく考えなくても、言葉の通じない国や、言葉の通じない生き物とのコミュニケーションが難しいことからも簡単にわかるだろう。とはいえ、犬と会話ができると思っている人と、人間と会話ができると思っている人とでどれだけ違うのかと思うと、大差ないのかもしれないと思えるくらい人と話が通じないこともある。
とはいえそれはお互いに予測の範囲を超える展開があるから起こると考えられる。そうであるなら、すべてが予測の範囲内で起こることならば話が通じていると錯覚することは可能であると空想することもあるのだ。
ほんとは別の話をしたかったんだが、予測の範囲を超える展開だったので元の話に戻せません。失礼しました。
見てきました。金曜土曜は9時まであいているのはいいと思います。涼しくなってから出かけられるから。
いろんな種類の絵を一度に見られたので満足。最近は見るときの手の抜き方を覚え始めたのでなんとなく楽に見られます。
なんとなく、ミスタードーナツで大量のコーヒーお代わり作戦を決行することにしたのであるが、水のがぶ飲みと違ってコーヒーのがぶ飲みはできないのである。以前、カフェオレで見事敗退した経験から、普通のコーヒーで挑戦したのであるが、やっぱりだめなのである。ミスドのコーヒーには何か秘密が隠されているのだろうか。敗北を抱きしめて、いつまでも減らないコーヒーカップのコーヒーを眺めていた。入れたミルクが表面に浮いて漂っていた。まるで雲のようだった。表面に漂っているだけの白い雲、口にするたびにくるくると回って新しい形を作り、冷房の風が当たってほんの少しずつ動いている。こんなに小さなコーヒーカップの中に雲を見てしまうなんて、あんなに大きな空に浮かんでいる雲には申し訳ないと思いつつ、空の大きさなんて結局のところわからずじまいなのかもしれないなんて思ったのである。
今日は昨日家でぐうたらしてしまったこともあって朝早くに目が覚めてしまったので、たまに朝早く家を出たらどうなるのだろうと思って家を出たのだ。その結果、一日というのは気が遠くなるほど長いということがわかったので、もうこんなことはごめんだと思ったのだった。
だって、居眠りしてもしても時間が過ぎないのだから。
「客観的に見て」などとよく言うがどこが客観的なのかよくわからない。
対象から得られる情報はすでに取捨選択が行われた後のものである。すべての情報を得られるわけではないし、その「一瞬」を捉えることなどできないのだから時間的にずれた情報をも今あるものとして判断せざるを得ないのである。
その選ぶ基準をどうするかという点で主観が入っている。客観的な基準を選ぶとしたところで、その客観的な基準とはどのようなものかを自分で決めているのだからもうそれは主観的だし、その、選ぶという決断自体が主観的なのである。
さらに、その基準に照らした判断もまた主観的なのである。これはいうまでもなかろう。
とすると、結局のところ自分の世界から抜け出すことは不可能なのではないかという考えにいたるわけである。
しかしながら社会は客観的に動いているようである。これが摩訶不思議なのである。
そう考えること自体も主観的なことなのかもしれない。それとも、主観というものも結局のところ数少ない選択肢を与えられたに過ぎない、個性のないものなのかもしれない。
確かにすべての点をイエスかノーかで判断することが可能であることを考えれば、主観も結局のところ分岐点の数の違いはあれ、ある程度似たところに収束するものなのかもしれない。
だとすれば、どこに分岐点を持ってくるのか、その点に個性の秘密が隠されているように思われる。
社会のルールと、自己の行動規範のずれを考えているうちに、こんなことになってしまったのであるが、学問の世界というものは広いもので、きっとこの程度のことはどこかの本の序文の三行で書ける話なのであろう。
あまり深く考えず、カントの言うように子供に問いかけて「駄目だよ父さん」と言われそうなことはやらなければいいのだろう。
大人になるということは、社会倫理に勝る自己の行動規範を持つということなのだろう。ルールは破るためにある、等という人がいるが、それは間違いで、ルールは破っていいときもある、ということなのであろう。しかしそれではひどいと思った小心者はルールを破ることをもルールに含めてしまおうと考えたのである。それが法律学だというわけだ(嘘)。
法律で出てくる話の中に「第三者に対抗することはできない」と書いてある条文の解釈がある。「第三者」とは何をさすか、という点が議論されている。
この議論の構図をわかりやすく別の話に置き換えてみると、「恋は盲目」とは言うけれど、「恋」とは健全な男女の間に起こる神に許された心の興奮を言うのであって、私が今、目の前を通り過ぎた美人なお姉さんに目を奪われたのはその「恋」ではないし、かりにそうであったとしても「盲目」とは比喩表現のことで周りのことなど何も見えなくなる状態を言うのであるが、今の自分には目の前の赤信号が見えているわけだから盲目な状態ではない、とかなんとか長ったらしい言い訳をしながら鼻の下を伸ばしてヒゲの生えたお姉さんについていってしまうようなものなのである。
ま、要は屁理屈なのだ。
更にひどいことには、小心者の正当化にも使われるからたまったものではない。ズル休みをする勇気がないだけなのに、授業に出席するのは学生の義務である、とかなんとかいって大騒ぎしながら実はズル休みするやつがうらやましかったりするのだ。
だから法律なんてどうしようもないものなのである。
と、屁理屈をこねて駄々をこねているのも真実なのである。ちなみに、僕は小心者であることを認め、ズル休みする奴をうらやましく思いつつ授業に出てずっと居眠りしていたりしていたのだから、弱者の見方です。
と、これまた正当化してみたりしていたりして、どうにもこうにも抜け出せない迷路に入り込んだことにここまで書いてようやく気づいたのであるが、ここで書き直すと三行日記に逆戻りな予感なので、ものすごい哲学的思考をしているに違いないと思い込んで今日の日記を終わる次第である。
つい最近あったばかりなのに、会ったとき、懐かしく感じる人もいる。しばらく会っていないのに、会ったとき、まるで昨日会ってたかのように懐かしさを感じない人もいる。久しぶりに会って、懐かしく感じる人もいるし、いつも会っていて、懐かしく感じない人も当然いる。思い出しただけで懐かしくなる人もいるし、いつも思い出しているから懐かしくない人もいる。
きっとそんな感覚は、何かずれているのだろう。
でも懐かしいなんて感覚は、過去のことに持つのだ。今の自分とかかわりのないものに対してもつ親しみの感情である。実は冷徹な感情なのだ。
と、かっこよく決めてみたが、実のところどうでもいい。懐かしいという感情も大事だと思います。
今日久しぶりに会った友人に「最近3行ばっかだね」と怠けているのを見抜かれてしまったのだ。三日坊主と三行日記、どっちが怠け者であろうかと考えてしまったが、どちらも怠け者である。
というわけで心を入れ替えて中身の濃い日記を書こうかと思ったのだが、これまたまったく頭に浮かばないのである。
今書こうと思って頭に浮かんだことといえば、今日見た夜空には久しぶりに3個以上の星が見えたということ、恵比寿の写真美術館で中村征夫の写真展に行って、涼しげでよかったこと、「イクオ」と読むらしいのだが、間違えてでかい声で「マサオ」と呼んでしまったこと、しかもサイン会をすぐそばでやってて厚顔無恥にも絵葉書にサインをしてもらったことくらいなのである。水中から水面を見上げると、あるところまでは鏡のように水中の世界が反射しているのに、あるところでは空が見えるのである。それがいい、と思いました。ちょっとだけまともな感想。
でまあ、何か書こう書こうと思っていると思い出してくるものである。最近の僕の標語。「一駅手前で降りてみよう」。都心部の駅は密集しているため、一駅は歩いても10分程度で着くのである。よく使う駅などは、一駅手前で降りて歩いてみると、いつもとまったく違う光景が広がっていたりして楽しいのだ。最近涼しくなり始めたので、なかなか楽しい。
でまあ、そんな程度の小さな変化について気にしてみると、平凡な毎日が意外と知らない事だらけだとわかるのである。例えば他にも、いつもと違う車両に乗ってみると、駅の光景が全然違って見えるのでまるで違う電車に乗っているような気がするし、いつも同じ時間に乗っているとすると、意外と顔見知りができていたことに気づいたりするのである。もちろん乗る時間が変わっても広がる光景は全然違う。日が当たる席が反対側になっていたり、子供が多かったり、サラリーマンが多かったり。
ちなみに女性専用車両、あれは痴漢防止といいながら、単なる広告戦略ではないかという疑惑が出てきた。つまり、女性専用車両を狙って女性向けの広告を打てば、普通車両よりも断然宣伝効果があるに違いないのだ。というのも以前乗ったある電車の先頭車両の広告がピンク色ばかりだったのだ。それは女性専用車両ではなかったが、先頭車両は女性専用車両になりやすい。だから狙っていたのではないかと思ったわけである。
グーグルやミクシーなどが、やっている戦略に似ていると思う。とするとだ、男性専用車両、高齢者専用車両も出てきてもおかしくないのである。これは面白い。ふと思ったが、弱冷房車両には冷え性向けの広告が多く貼ってあるだろうか。
うむ。スイッチが入ってしまえばいくらでも書けるのかもしれない。
哲学するってトイレにこもることだとばかり思っていたのだが、どうもそんなことは辞書に載っていないのだ。おかしいな。
って書いてから、ひょっとして前にも書いたかもしれないと思い調べたら、まったく同じことを書いていた。まあ、人の考えることなんてそんなものだ。