こいつ何を言い出すんだと思われたらごめんなさい。
憲法では表現の自由が厚く保護されている。それは民主政を機能させるために必要な根幹部分として、自由な表現を持って言論、思想その他色々な思いを戦わせるというのが必要だということのようだ。その戦いを見た上で、一番ましなものを選んでいくというのが民主主義らしい。
一方で、わいせつな表現というのは、当然ながら制限されているわけで、見たくない人の権利とか、性風俗に関する公の秩序とか、女性の権利とか、そういったものを根拠に制限を認めているようなのだが、完全自由化を主張する説も有力なようだ。
完全に自由というのは、単なるエロ親父の発想だろう、と思っていた。
しかし、ひょっとすると、結構アツいこと考えているのではないかと思ったのだ。
「わいせつ」というだけで、世間の注目は格段にアップするのは事実なのだ。まじめなノンフィクション小説よりも。ポルノ小説まがいのほうが売れることも多そうである。とするならば、「わいせつ」というのを宣伝文句に、実はまじめな思想や事実を多くの人に伝えようという発想があってもおかしくない。
例えば、政治家の醜聞だとかは、単にその醜聞そのものの表現だけではなくて、その中にちりばめられている何かを誰がどのように読み取るかというのは、結構難しいのかもしれない。わいせつだからといって眉を潜めて禁止してしまっては、大事なものも結構隠されてしまうのかもしれないなと思ったのだった。
単にわいせつなだけなのかそうでないかは、受け手にかかっているのだろう。文学や、学問だって、一般人には何の価値も見出せないものも多数あるのだから。けしからんからって焚書されたら困る人だってたくさんいるのだ。いつだって不真面目な人の影にまじめな人がいるのだ。まじめな人の裏に不真面目な人がいるのではない。不真面目な人のほうが目に付くものだ。
要約すると、やっぱり秋刀魚は目黒に限る。
今日見た夢は、カラスと話す夢と、飲み会の人数が予想以上に多くて慌てて空いている飲み屋を探しに走り回る夢だった。
今日は帰りに電車が多かった。サラリーマンが多かった。いつもと同じはずなのに、人が多かったり少なかったりで、今日は何かあったのだろうかと思ってしまうのだが、きっとそれは偶然が重なっているのだろう。
暖房は敵だ。と、小さな声で呟いてみる。この時期になってもTシャツで過ごせるなんてどう考えたっておかしいと思うのだが、教室でTシャツ一枚なのは、僕だけかもしれない。暖かくて頭がボーっとして寝てしまうのだが、そんなこというと、お前は暖房入ってない時も寝ているではないかといわれると何も言い返せないのだ。授業がつまらないからだといってみたところで、人のせいにされた先生もたまったものではない。きっと着々と冬篭りの準備をしているこの体が原因に違いないのだ。
帰り道、猫のデートを邪魔したら駅の直前で突然の雨。雄猫の恨み。折り畳み傘のお陰で助かった。雨が降りそうになると空気が暖かくなる。今日も電車にはコンサート帰りと思われる多くの人がいたのだが、今日は何のコンサートだったかわからなかった。ちょっと悔しかった。
大学のゼミのOB会がありました。ずいぶんの多人数で開かれており、驚きました。去年一緒にいた人達とも久しぶりに顔を合わせ楽しかったです。
六本木ヒルズでやってて、終了間際だったので行ってきました。数は少ないものの、有名どころが多かったです。見ごたえある作品がいくつかあって、刺激を受けたのでグッドでした。あかずきんちゃんが一番よかったと思います。
今日あったトラブルの数々。「たこ焼き」を「たい焼き」と見間違えた。買おうと思って「1パック250円」と書いてあるのをみて、しばらく考えて、やっぱり意味不明でもう一度読んだらたこ焼きだった。新聞を読んでいて「延期」が読めなかった。ショックだった。きっと昨日一杯寝たから目玉が一回りして上下逆さになってしまったに違いない。
昨日、一昨日と睡眠時間が多かった為もあってやはり一杯夢を見た。大泣きする夢やら、丹前を着ようとするところを女の人に見られて、気まずい思いをしたところ、しばらくたってその人が声をかけてきて、よくみたら幼稚園以来会っていない友達だったりとか、落ち葉のプールを滑りぬけたりだとか、学校でアート祭をやっていて、摩訶不思議な現代アートをみまくったりとか。
それでふと映画を思い出した。
ずいぶん昔に見た映画だけど、結構面白かった気がする。英会話の授業があったとき、この映画をお勧めしようと思ったのに全然通じなくて、帰って調べてみたら英語タイトルは"Devil's Advocate(悪魔の代理人)"という意味で、ぜんぜんこっちのほうがしっくりくる内容なのだが、ちょっと古臭く聞こえるから仕方ないのかなと思ったことを思い出した。
映画とは関係ないのだが、学校付近に猫がたくさんいることに気づいた。白い猫は大概逃げる。黒い猫もほとんど逃げる。茶色い猫はたまに、仲良くしてくれるやつがいる。ごちゃごちゃ遊んでたら、彼氏と思われる猫にがんを飛ばされた。気のせい、遊んでほしいのだろうと思って近寄ったら物凄く嫌そうな顔をして逃げた。そんなこんなで学校でくしゃみがとまらなかった。
友達になりたいあのカラスは、今日久しぶりに会えるルートを歩いたのにいなかった。そんなわけで探しながら歩いていたらカラスがあちこちにいることがわかった。しかも、声も違えば顔も違うのだ。
動物の顔なんて区別がつかないと思いがちだけれど、人間と同じくらいの距離に近づいたら結構わかるんじゃないかと思った。
と、ふと思った。人ではない何かを考えるときは人に喩えて考えてしまうものなのだなあ。動物であっても、きっと機械(テレビだってご機嫌斜めだと写りが悪い)も、ロボットも、きっと人の集まりもそうなんだろう。
今日は休日なので早く帰った。電車が妙に赤いような気がしたら、浦和レッズの試合だった。
雨に濡れずに帰れると思ったのに駅を出たら雨だった。
むずむずして書けなくなってしまうことというのはたくさんあるわけだが、そういうことは書かないとドンドン忘れてしまうのである。たくさんの忘れてしまった中から、ようやく引っ張り出せる断片的な記憶がかろうじて連なってるだけなのだよ僕の頭の中は。よっていつも支離滅裂なのだ。だからみなさん、僕が支離滅裂でも温かく見守ってください。
成果が出るのには時間がかかることもある。食べ過ぎの成果が着実に体に現れ始めた。お陰で教室ではTシャツ。れっつ冬篭り。
ときおり、大量に何かを買ったりすることが多いのに気づいた。ドーナツも大量に買うし、昨日は大量にCDを借りた。なぜって半額セールだったから。普段借りない邦楽も借りた。普段借りないのは、歌詞がうまくて、気づいたらその言葉に乗せられて色々なイメージが頭を占めるのが、時折たいへんだから。自分の言葉の弱さに気づくから。
いい曲でした
ふつうですが「せろり」がいい。他のCDで、やさおとこって曲もあったと思うんだけど、そのやさおとこの意味を最近知りました。勝手に「やせた男」だと思っていたら「優男」という意味で、実は優しいだけでいい様に使われてしまう男の人のことでした。
これも借りました。
いつも見慣れた通学路を走っていく土佐や高橋。バイト先でテレビを眺める。3分歩けば見に行ける距離。不思議な感じ。高橋は後半失速しちゃって残念だったけど、それをみてランニングマシーンに乗って5分でダウンした僕より全然かっこいいのだ。冷たい雨が降りしきる。
円空の仏像は素晴らしい。
レポートが行き詰まり、朝の6時にテレビをつけると円空と木喰の仏像紹介をしていた。ふたりとも素晴らしい仏像を彫っていたのだが、それより何より衝撃だったのは、その番組で紹介されていた仏像である。子供の遊び道具として、そりにして使われたり、川に投げ込まれたり、地元の人に貸しているうちになくなってしまったり。そんな風に世俗の中にいてもおかしくないほど優しい仏像。
すたこら走ったのに電車に乗り遅れた。一本遅い電車はガラガラだった。金曜の夜、酔っ払いの紅潮した顔とは対照的に、薄ら青い無精ひげ。
うまい!チャチャチャっチャラ〜〜〜!練って寝る寝る寝る寝るね〜るね!ってなCMが昔ながれていたが、あのインパクトはやっぱり凄い。食べたときの衝撃も凄かったような気がする。しかし、思い出せない。わたぱちと、葡萄の実を育てるみたいにして食べるお菓子と、その他もろもろ、遊ぶのは楽しいお菓子。いや、単に寝てばかりの一日だったということを思い出しただけでした。
暗くなって学校を出ると、いつの間に雨が降ったのか、アスファルトが濡れている。湿った冷たい空気が心地いい。吐く息が白い。やっとこんな季節が来た。雨上がりの夜、いつもより人は少なく静か。騒がしい音を雨雫が吸い取っている。時雨が残る木の葉。しっとりと濡れながら染まった葉を垂れている。雨上がりの夜。雨が上がったことにみんな気づかない。人は少なくいつもより静か。白い息を作りながら、雲の架かった明るい空を眺める。
でかい天道虫発見。

こういった、さりげない悪戯をする奴がいるから面白いのだ。夜みると怖すぎる。
最近どうも日本語を間違えてばかりいるわけで、「募る思い」を「積もる思い」といってしまったり、造詣が深いを「ぞうしが深い」とかいってみたり、「一切」の「切」の右側を「刀」ではなく「力」と書いてしまったり、ルミナリエだかミレナリオだか、おざなりなんだかなおざりなんだか、なんだかわからなくなったり、ほかにもたくさんのいい間違えや書き間違えがあるわけだが、いい間違えと書き間違えはきっと全然違う間違えなのだと思う。話し言葉と書き言葉は別物なのだ。ここでまた「間違い」なのだか「間違え」なのだかわからなくなったりして、一言一言、しっかり確認していると何がなんだかわからなくなるから、一気に「あぎゃ」と言ってすべてを済ませてしまいたい気分になるのだが、そうすると今度は何も伝わらない。
時折カラスが電柱の上で、変な鳴き方を練習しているのを見かける。彼らはひたむきだ。そういえば、今日は物凄い早足の鳩に出会った。翼を持つ鳩ですらそそくさと早歩き。それが東京なのである。
先日、東京には星空がないと書きましたが、今日ふと空を見上げたら、綺麗にオリオン座が見えて、他にも星がたくさん見えました。きゅっと空気が冷えると、ぐっと空が近くなるのかもしれません。ほっとする瞬間を、そっと心にしまいこみました。
今日は風が強かった。頭を掻き毟ると砂が出てきた。小学生のとき、サッカーでヘディングしたりして、頭がじゃりじゃりだったときもあったような気がしてきた。高校でも運動会の練習で砂だらけになっていたような気がしてきた。頭から砂が出てきただけで、これだけのことを思い出す。それらの記憶から次々と思い出す記憶もある。
先日、ずっとドアが赤のままになっているトイレがあった。いつ入っても赤のまま。ずっと中に誰かがいるのだろうか。トイレに行くたびにドキドキして、小学生のときに読んだ怖い話を思い出した。いくら耳を済ませても中から音はしない。我慢しきれなくなって、そっと扉を開けてみた。鍵が半分閉まっていただけだった。
休日だということもあり、泥のように眠った。色々な夢を見た。久しぶりにいろんな夢で、しかも意味不明だった。神田うのの飼っているダックスフントにホースの水を向けて、よけたり追いかけたりして遊んで、なぜかそれでバイト代を貰ったが、それが6千円だったのに2千円札一枚と千円札一枚に値切られ、貰ったそのお札はどちらも偽札。偽二千円札の裏にはなぜか「コロ助」の肖像画。それが偽札であることを説明するのに物凄く苦労した。剣道していた気もする。色々あった。でも、楽しかった。
今日は久しぶりに雨の降った日。雨が降る日は暖かい。雨に濡れた落ち葉が暗いアスファルトの道を彩る。街路樹は元気がないのか綺麗に染まった落ち葉はめったにない。半分緑だったり、虫食いだらけだったり、半分黄色だったり、千切れていたり、茶色に焦げてたり。晴れていると風の吹くままどこかへ飛んでいってしまうのだが、雨が降っていると、ぴたりとひっついて自己主張してる奴らが多い。太陽の照らす落ち葉も鮮やかに色が出て綺麗だが、雨の日にぼんやりと浮かび上がる落ち葉もやはり美しい。雨が上がれば空には綺麗な月。月が欠ければ星が増える。雲が出れば星は隠れるが、夜空の雲も綺麗なのだ。
昨日、惚れ惚れするほど美しいカラスに出会った。手を伸ばせば届くほどの距離にいて、首をかしげていた。じっと見つめていたら、困ったような顔をして歩いていってしまった。あのカラスにまた会えるだろうか。そもそも見分けられるのだろうか。
世の中は早いものでもうクリスマスの飾りつけが始まっていたりクリスマス商戦が始まっている。まだまだ一ヶ月以上も先のことなのに。クリスマスといえばサンタさんからプレゼントを貰うものである、しかしここのところ、クリスマスは恋人たちのものとなってしまっているようで残念だ。そういう年代になったということなのか、それとも、サンタさんも年取ってしまったのか。子供が減ってサンタもやる気をなくしたのだろうか。
「サンタに何をお願いしますか?」などと今聞かれたら、何を答えるのだろうか。即座に浮かばない。平和な世の中だ。
昔そんなCMがはやったような気がするが、涼しくなるととんでもなくお腹が減るわけで、食う量を減らすには資金を絶つのが一番と思ったのだが、そんなときに限って頭は回転するわけで、安くてたらふく食う方法を考え出すわけである。フランスパン一本。どうでしょうか。マクドナルドで80円のハンバーガー3個というのはどうでしょうか。バナナ一房はどうでしょうか。板チョコ2枚でも結構いけます。ところが寒いと温かいものがほしくなるわけです。でもホットコーヒー100円に勝つために、ティーバッグ持参というのまではできないんだよなあ。昆布茶とか買っちゃいそうだけど。
やっぱアイスかなあ。
ぐっと寒くなってきた気がする。そうすると、空が高くなるのだ。昼の青空、夜の星空。星空。都心は、ほとんど星が見えないから星空なんていえないかもしれない。空だって、ビルの隙間からしか見えない。かろうじて月空っていえるくらいなのだろうか。
昨日の朝は靄がかかっていた。久しぶりに乗る朝早い電車の窓から見える白い空に、白く輝く月。ずっとみていてふと気づいた。日が昇っているのに、月が輝いているなんてあるわけがない。昼間の月は、白く浮かぶことこそあれ、輝いているわけがない。よくみたらそれは月ではなく太陽だった。あんなに暗い太陽は初めて見た。
ところで、加山又造、海老原喜之助。好きなアーティストをまた発見。
友達が貸してくれた本。二人の対談。いろんなことを考えて、錯綜しているようで、ぼんやりとしたイメージが伝わってくる。すべてがすべて感動的で納得することばかりではないのだけれど、やっぱり表現がうまいところとか、新たな視点とか、そういうのがあるのであって、自分の考えていたものを補強してくれたり、新たな疑問を提起してくれたりするのだ。だから、一風変わってるほうがいい。
向田邦子のエッセーに感動して、エッセー風に書いてみたところ、後から読み返したらどうしようもない日記になっていたことに気づいたが、ま、しかたない。
時折、このブログを読んでくれた人が、「哲学的だ」と言ってくれることがある。お調子者の太郎君は、何でも褒めてると思ってしまうので、例えば、「老けたね」といわれると、「チョイ悪親父のかっこよさが出てきたね」と褒めているのだと思い、「いつも寝てるね」といわれると、「どこでも寝られるというのは素晴らしいことだ」といい気分になってしまうのであるが、実はどこでも寝てしまうのと、どこでも寝られるというのは違うのだという事に気づくのは2,3年後なのである。
であるから、哲学的だという評価は、きっとこのブログが世界、人生の根本原理を追求するブログであるという評価をしてくれれたのだと辞書どおりに捉えてみたのであるが、よくよく考えると、「哲学する」が、トイレでうなることを意味するように、「哲学的」という言葉には巷では他の意味があるのではなかろうかと考えるにいたったのである。
多分、「意味不明」ってことだろう。
お調子者の太郎君は、「意味不明」も「ひょっとしてこいつ天才じゃないだろうか」ということだと思っているので、やっぱり嬉しい。これからもよろしく。
向田邦子の2冊目のエッセイ集。エッセイって随筆のことだろう。随筆よりもエッセイのほうがしっくりくるようになったというのは随筆に申し訳ない。
向田邦子はテレビドラマの脚本などが多いようで、寺内貫太郎一家とか、そういったのを書いていたらしい。
でも、この人のエッセイはすごい。ズバンと射抜かれる。泣いて笑って、心地よくなるのだ。
彼女の一冊目のエッセイ集は父の詫び状。
これも文句なし。小学生にして、出会えてよかったと思った。なんでこんなにうまく書けるのだろう。なんで、ここで、このタイミングでこの言葉をだせるのだろう。ただただ、その言葉と、その「間」に、感動する。
話の中に戦争がよく出てくる。小学生の頃、そんな話はもっと身近だったのに、今ではとんでもなく昔のようで、だれも話題にすらしない。出てきたところで60年前の大昔の話としてである。でも、その頃の話というのが、経験していない自分にとってもビリビリと感じられるのだ。自分の祖父母がそのような体験をしていたのだと思い出すと。みんな忘れていってしまうのだろうな。
「今」が一番大事で、みんな最善を尽くそうと頑張っていて、でも、色々な所を見逃している。みんなで見逃していて、ことが起こってから気づくなんてこともあるのだろう。
時代が変われば、過去のものは色あせていく。そんな風に思われがちである。しかし、心を打つものはいつになっても変わらない。作品が時代を超えて残るということはもちろんのこと、何年たって読み返してもいいものはいいのだ。本だけでなく、絵であっても、音楽も。人も。何もかも。
問題は、思い出せるかどうかなのだ。
途中まで書いてそのまま出し損ねた手紙があったりする。封までしたのに出す勇気がなくて出せなかった手紙もある。下書き保存したままのメールも。何度も書き直した下書きメールも。そのまま忘れてしまって、しばらくたってふとした拍子に開けてしまったり、なんで出さなかったんだっけ、と思ったりすることもある。どれもこれも、読み返すと自分が書いたとは思えないほど揺れていて、言葉を選んでは紡いで、言葉には表れないぼんやりとした何かが浮かび上がっていたりする。でももうそれは用無しで、それはずっと下書きのままか、ゴミ箱に行く運命なのだ。
書いては削除する日記があったり、言いかけてやめてしまう言葉があったり。きっと一番綺麗に表現できているはずなのに、そのまま消えていってしまう表現もある。
そのくせして、どうでもいいことを口走ったり、どうしようもないメールを送ったり、よくわからぬ走り書きや、落書きばかりが消そうにも消せないまま残ってしまったりする。
何も考えていないときばかり言葉は次々と出てきて、何か考えると途端に浮かんでは消えていってしまう。
不思議なものだ。
連休の過ごし方を考えようと思ってるうちに、連休は半分以上終わっててただの休みとかわらなくなっていることがよくあるのだ。

ハチ公前に電車が一両おいてありました。中ではお年寄りが休んでおり、パネルで歴史が紹介されておりました。ちょっと面白い感じ。お陰で本物の電車には乗り遅れて遅刻。
ハロウィンである。なんというか、日本ではどうも中途半端なお祭りであるなあと思ってしまったりするのは、僕がハロウィンを存分に楽しめていないからであろう。
というのも、六本木や原宿では仮装した人が一杯うろうろしているという噂をふと思い出し、行ってみようかとネットで調べたらパレードみたいのは週末に終わってしまったらしく、あえなく断念。
しかもみんな気が早くて、31日なんてもうハロウィンの飾り付けは取り外し始め、クリスマスツリーを飾り始めているのである。クリスマスと新年は酒が飲めるお祭りだからきっとみんなワクワクなことでしょう。