いつだか書いた「野菜のようせい」が突如最終回だったのだ。NHKだし、10分で終わってしまうしかも朝方のアニメ番組だから、最終回だからって宣伝しないし、最終回だからって回想シーンもなかった。それだけど、いい最終回だった。無理に盛り上がらず、さびしいけど、なんとなくいい気分のまま、続きはないんだろうけれど、まだ続きそうな。
気付かぬうちにいろんなパターンにはめられてるのだ。恐ろしいことだ。
気付かせてくれてありがとう。
宮沢喜一が死んだ。秀才と呼ばれた人らしい。いまどき、老衰で死ねるなんて幸せだ。天寿を全うしたのだろう。
彼はハト派といわれた。平和主義者が減って残念と書こうと思ってウィキペディアで彼のことを調べてみたら、僕のイメージする「ハト派」とはちょっと違った。ついでに、「ハト派」「平和」などなど色々調べるうちに、何がなんだかわからなくなってしまった。
平和ってそんなに難しいことなのか。
一見わかりやすい言葉にだまされちゃいけない。
それが今日の教訓。
蒸し暑くて少しイライラする木曜日の夜。
意外と難しいんだよなあ。
今日は初めてパスモで新聞を買った。駅の売店で、慌てふためいて小銭出す時間がなくてピッとやって買ったのだ。なるほど便利じゃないか。
なんでも初めてのことがうまくいくと嬉しいわけでいい気分で一日が始まったのである。
猫って言うのはそんな気分を敏感に感じ取るのである。学校近くの猫でいつも逃げ回って触らせてくれない縞々な奴が、珍しくニャーと鳴いて触らせてくれたではないか。嬉しいのう、と思いなで始めたら、これまたいつも睨んでは逃げる黒い奴が車の下から走って出てきて縞々と私の間に入り込むではないか。
やつめ、ヤキモチやいてやがる。ほんとは俺のことなんて好きでもないくせに。とか思いつつ、でも、いつも触らせてくれない奴が走ってこっちにやってくるなんて嬉しいものだから二人ともなでたのである。
すると、縞々が私の後ろに逃げてしまうではないか。どうしよう。迷った挙句、手を伸ばして両方撫でておいたのである。
しばらくなでた後立ち上がり五歩歩いたら、今度は三毛猫がいるではないか。最近撫でさせてくれるようになったので、挨拶をしようと頭を撫でたところ、どこからともなく冷たい視線。
振り返るとさっきの縞々が睨んでいるではないか。まずい。そう思った私は、慌てて手を振ってしまった。その後ろには人がいたなんて見なかったことにするのだ。
そして帰り道、柳の下の鰌で、もう一度その場所に行ったら、通りすがりの人の足の上に抱えられている黒い奴がいた。
なんか悔しい。その時、朝の彼らのヤキモチがわかったのであった。
携帯のメールが転送メール含めて一度もならなかった記念すべき日に。
教科書やら中吊りやら、新聞やらネットやら、いたるところに文章って転がっているのであるが、時々、おおって思って、何度か読み直してしまったり、おぼろげながらもストーリーを覚えてしまう文章がある。読んだことすら忘れてしまう情報が多い中、そんな文章ってやっぱ凄いなあと思うのである。
最近、日経新聞の「春秋」の欄にそんな好きな文章をよく見かけたりして、意外なところにあったものだから嬉しかった。
僕の好きな文章ってどういうものなのだろう。知ってるような知らないような。
今日の車内放送で唯一記憶に残っている言葉。「のろのろ運転となります」。徐行運転といわないあたりに車掌のセンスが光ります。
また左耳がワンワン言い出したのである。ついでに今日はぐらぐらしたのである。一日二日で治るからほっとくのだ。
ところで、はしかなのだが、逃げ切ったと思う。勝った。病人を見たり麻疹にかかった人と接触した人に会ったりする度に心の奥底でドキドキしていたのだけれど、賭けに勝ったみたいでうれしいのである。
中にいる人たちは乗る時は少しも動いてくれずむしろ嫌な顔さえされるのだから、人の優しさなんて微塵も感じられず人間不信になるのであるが、降りるときにはみんな一生懸命スペースを作って押し出してくれて、駅に降り立った時は、人間捨てたもんじゃないなと思ってしまうのだから世の中うまくできていると思うのである。
隣の席の人の証言によると、授業開始から2分とたたないうちにバクスイし始めたらしいのである。
ひょっとして大事なメールが来ているんじゃないかと思ってドキドキしながら家に帰るのであるが、そういうときに限って一通もメールが来ていなかったりするのである。
今日は、2通来ていた。一通は学校からのお知らせメールだった。
蚊が飛んでる。たたけどもたたけどもあたらない。じっと手を見る。
プレゼントを買おうと思ってたのに自分の買い物。父の日のプレゼントとして紹介されている商品がほしいと思ってしまうお年頃なのでしょうかね。甚平がほしい。しかしいつどこで着るのだ。
半年くらい前に見つけた美味しいゲッペイ屋さんがあった。今日久しぶりに買おうと思ったら、2週間も前に閉店していた。見るからに古いお店。張り紙も丁寧な毛筆。残念。もうあの味は味わえない。
200超えてる。どこかにさらされたのかな。
よおく思い出してみたら、昨日の夜、自分で昔のブログを読んでた。きっとそれだろう。
猜疑心は諸悪の根源。
過去の自分の言葉に励まされることだって、コメントに勇気付けられることだってある。心は流れだから捕まえられない。言葉はいつまでもそのまま。その時の心の証としての言葉ではなく、言葉そのものの持つ力は裏切らない。
読んだわけではない。先日日経新聞の書評に載っていた。
小学生の時にひとりぼっちのジョージの話を聞いたことがあったのを思い出した。まだひとりぼっちなんだ。いや、ずっとひとりぼっちなのか。
キリバスは50年以内に沈んでしまうのだそうだ。インタビューをうけた大統領の言葉。「温暖化対策をするように世界中に訴えた。やっと皆が対策を立て始めてくれた。でも、もう遅いんです。キリバスは沈みます。30年か50年かわからないけれど、近いうちに必ず沈むのです。」
そんなようなことを言っていた。
皆が気付いた時にはもう遅い。重くてつらい。
拍手ってのはクリックすると拍手の数が増えるものらしい!コメントを書くのは面倒だけど、足跡くらいは残してやるかみたいな時に使えるのだろうか。
ゴールデンキウイとかいう黄色いキウイがあるのだが、物凄く甘いという噂。買ってみて食べてみた。それが、昨日食べかかって腐っていると判断した普通のキウイと同じ味なのである。腐っているのかそういう味なのか、はたまた昨日腐っていると思ったのが間違いだったのか。
何においても線引きは難しいわけで、未熟、熟している、熟れ過ぎ、腐っている、の「熟れ過ぎ」と「腐っている」の限界がわからんのです。基準が問題だ。おなかを壊すかどうかで判断するのか。
ちなみに、おなかはゴロゴロ言っています。でもまだ耐えてる。
「拍手」とかいうボタンができているのだが、これはなんなのだ。あたしゃ知らないよ。こないだまで同じ場所には他の名前のボタンがあった気がするんだけど、思い出せないよ。覚えているようで覚えていないもの。でも丸きし忘れているわけでもない。
環境の変化に耐えられる人間関係を大事にしようと思う。今まで、今、これから、どれだけそんな関係になれるか未知数だけど、僕と関係を続けようと思ってくれている人に感謝しつつ、毎日を過ごそう。前も同じようなことを書いた気がする。誰かがコメントをくれたような気がする。覚えているようで覚えていない。でも、丸きし忘れたわけでもない。
メールやら、コメントやら、いろんなことに返事するのが遅くなっていてごめんなさい。
居眠りしていてごめんなさい。挙句の果てに寝言言っててごめんなさい。