冷たい雨が降りしきる
寒空に
おもい雲の下
駈るおもい出は
雨で滲みぼやける
たしかケツメイシの歌の一節だったような気がするが,詳しく思い出せない。冷たい雨が降るとついついこの歌詞が思い浮かんでしまう。高田馬場から早稲田に向かう道で,セブンイレブンから横の道に入って,高木ブー通りという隠れた名前のついている通りを一人で,雨の中歩いているときにMDで聞いていた。そのとき,「雨で滲みぼやける」というのは,足跡が雨で流されていってしまうイメージだったのだが,今言葉にしてみると,窓を雨が流れて外の景色がぼやけてしまうイメージを感じる。何がどう違うのだろう。
読書週間だからか,そうでないのか,いい本がほしいと思って本屋に行った。本というのは,出会いの典型のようなもので,ふと手にした瞬間に恋に落ちてしまうような出会いもあれば,あんまり面白くなさそうだと思いつつもちびちび読んでいるとじんわり感じてくるものもあれば,最後になって急に燃え上がったり,いろいろある。ぺらぺらと数ページを繰っただけでびびっと来るものなんてそうはないわけで,そんなときには安易に過去に出会った作家のところに流れていくものだ。
そんな風に考えていると本の選び方には性格が現れるんじゃないかと思う。そう思って,自分の本棚を見てみたが,読み終わった本は奥底に沈み,まだ読んでない本が平積みになっている。いまいちである。
結局,本屋で手に取った本は,ウィトケンシュタイン読本だった。馬鹿らしい。
秋だからなのか,何かを求めてさ迷い歩き,自転車に乗ってスポーツの秋,本屋によって読書の秋,食べ物食べて食欲の秋,音楽聴いて芸術の秋と,まあ一通りやっているような気がするが,大事なことをひとつ,やってない。それが,学問の秋だ。
なんていいながら,今日はハロウィン。いいことあるかな。
今日は久しぶりにチャリ通しました。台風一過の秋晴れで気持ちがよかった。
四谷には甘栗太郎ビルというのがいくつもあるのだが,甘栗太郎のお店は見たことがなかった。ところが今日偶然甘栗太郎のお店を見つけた。思わず買ってしまった。出来立てほやほやの温かい甘栗を抱えてほんの一瞬の雨上がりに学校まで傘をささずに学校まで行けた。お店も先週できたばかりらしく,「お店もほやほや,栗もほやほや」なんていうお店のおじさんの言葉もほかほかだった。いつも車道の右側を歩いていたのを,今日はたまたま左側を歩いただけ。たったそれだけで,こんないいことがあるなんて。
最近食べ物が美味しい。ようやく秋が来たような気がする。だけど相変わらず偏食です。美味しく食べられて,健康ならば,僕はそれで満足です。
いやあ久しぶりにドーナツねたでありますが,今日はドーナツをひとついただきました。あんまりうまいものでして,思わず,帰りにミスタードーナツに寄ってしまいました。久しぶり。甘いものを食べたくなる日もあるわけです。なんだかおまけもいつの間にか充実してたので,またいきたい気分になりました。
実はチーズ熱も再燃しそうなんです。が,ちょっと高い。そんで,くさいチーズがなかなかない。
今日はきれいだったと思う。ただ月は少し静か過ぎると思う。
飛行船での遊覧ツアーが始まるらしい。あこがれるがちょっと高いなあ。
昨日は中原中也の命日
汚れつちまつた悲しみに……
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
早稲田の125周年を祝おう。僕は早稲田太郎だから。
最近ところどころで青い街灯を見かけるようになった。夏場は虫除けでもつけているのだろうと思っていたが,どうも違うらしい。蛍光灯が青いのだ。
寒々してちょっと嫌だが,これで犯罪が減るのなら我慢しよう。
切り株が巨大なウンチに見えた。巨大生物がどこかから現われやしないと一瞬不安になった。
パンパかパンと隣の防衛省からラッパの音が聞こえてきた。外を見ると真っ暗。おやと思って時計を見るとまだ5時半。日の落ちるのが早くなったものだ。
髭に一本白髪発見。
不思議な池がありました。石を投げ込んでもその石はもぐったり沈んだりします。さてなぜでしょう。
なんてとんちがあった。もぐったり沈んだりというと,なんとなく,浮かんだり沈んだりと思ってしまうという勘違いを狙ったものだ。
今日はいやなことがあった。いやなことがあると,自分が何を大切にしているかに気付く。だからそれはいいことなのだと思う。不愉快に感じることがあったとき,それが,他に主張することが許されないような理由に基づくものであれば,それは自分のエゴが理由だとして反省材料になるし,他に主張しても許される理由であれば,それは自分が大事にしている価値なのだと思ってよいだろう。仏陀の述べた因果論は,前者の点に注目したものだと理解している。
問題は前者か後者かを判断する方法だ。客観的基準に照らして判断すべきなのだろうが,客観的基準というのは,一般人がそう思うであろうという基準を用いることになる。しかし,一般人がどう思うかというのはよくわからないから困ってしまう。そこで合理的一般人を基準にすることになる。合理的一般人というのは,考慮すべき事情を考慮して論理的に考える人のことをいうのだと思う。とすると,自分の中に,考慮すべき事情を考慮して論理的に考える思考過程が必要になる。果たして当事者である自分にそれが可能なのだろうか。そこで人に相談することになるのだろう。
しかし,人に相談するということは一方で客観的な判断に資するものであるが,他方では,新たな利害関係を生みさらに問題を複雑にする恐れがある。
そこで,相談する相手に適しているかどうかを判断する基準が必要となる。それは,客観的に見て,相談する事柄について合理的なアドバイスができる経験と知識を持っていること,少なくとも相手の利害関係人でないことが必要となる。しかし,その有無を判断するのに自己は利害関係を有していることから合理的な判断ができるとは限らず,そのため第三者による判断が必要となる。
では,誰が判断すればよいか。
などと考えていると埒が明かなくなる。このことは,自分に合理的一般人の思考ができないことを証明してくれる。
では,誰に相談すればいいのか。
そんなこと自分で考えろ,ってことだろう。
ということで自分で考えるとこうなる。
今朝空を見上げたら青空の下に白い雲が広がっていたがその端っこが空から垂れ下がって地面に向かって伸びていたのを見たカラスがゴミ袋をあさるのをやめてそちらに向かって飛び立とうとしているところを通り過ぎたときにふとカラスを見るのが久しぶりなような気がするのはなぜだろうと思ったのは早起きしなくなったからかもしれないと思いつつもいつも一限の時には同じ時間帯に歩いているはずなのであるからそれは誤った考え方であるので違う理由を考えようと思い次に思いついたのは世界に対する関心がここのところ以前と違うところにあってカラスに目が行かなかったことによるものであろうということであってそれが正しいように思われるのであるが以前と最近とでどう違うかといわれるとどうも答えづらいのはそれほど明確に違いが現れていないからであろうがどこかにはあるはずだと考えているとどうも最近鼻が詰まっていることが多いことに理由がありそうな気がしてきた。
そうだ,鼻が詰まってるんだ。
これは刑法の学説の争いですね。
あと一日。とまあ,こうなってから話題の展開に困り果てるのである。さよならとかかくと死ぬんじゃないかと勘違いされそうなくらい冗談の通じない世の中に成り果てていると困る。
とりあえず刑法の言葉を書いてみたが特に意味があるわけではなく。というか,この言葉の意味をずっと勘違いしていたことを白状しよう。
行為無価値というのは,どんなことやったって意味ないじゃん,ということではなくて,結果無価値というのは,何やったって結局意味がない,ということでもないのだ。というか,そう考えると両者の違いがわからん。否,ずっとわからんかった。無価値とか言う小難しい言葉じゃなくて,「うざい」とかいってくれれば,「行為うざい」「結果うざい」ってことで,わかりやすいんじゃないかと思ったりもするのだが,余計わかりづらくなる人のほうが多いんじゃないかと思うから,世の中そのままでうまくいっているのだとおもう。具体例を出せば出すほどよくわからなくなることはままあることだ。わかりやすく言おうとするとどんどん遠ざかっていく。
たぶん遠ざかり過ぎて他の所に近づいてしまっているのではないかと思う。
世界の終わりは世界の始まりということだ。
旧世界の終わりはすべてが雲散霧消することで終わるんではないかと思う。すべての存在が霧のごとくぼやけて消えてく。世界を見るには視点と対象が必要だ。対象がすべて揺らいでいき,見定めることができなくなり,自分もまた薄れていく。自分の存在を点として,外の景色を見るときは,動くものがあっても,地面が動かないからいろいろ見ることができるが,地面から何からゆれていたら何も見えなくなる。そして,何も見えないでいるうちに,自分の存在も溶け出してしまう。真っ暗な暗闇で目を開けていることができなくなってしまうように,音のしない部屋で耳をふさいでしまうように,周りが見えない世界で自分は不安にかられてその存在を薄めていってしまう。ちび黒サンボのトラみたいに,世界はどろどろに溶けたバターになってしまって,自分もまたバターみたいに溶けてしまう。
自分の存在をも否定するところから新世界が始まる。すべてが無価値だ。そこから何が始まるのだろう。
新世界が出来上がる前に考えなければいけないことはきっとここだ。
と思いつつ,眠気に勝てなくなった。
一週間の閉じた旧世界にお別れを言おう。仮想世界というのもいろいろ学ぶことが多い。
しかし,あまりに理解できない世界だ。そして危険だ。
「こんな世界だからこそ絶対に譲れないことがあるのよ」
パンク侍、斬られて候 / 町田 康この言葉が効いてくる。くそ。やつの手中だったか。すべての始まりはこの言葉で,そして終わりもこの言葉か。今気付いた。ずっと前に始まっていたのか。負けたな。すべては既に誰かに支配されている。
「あかんかった」
告白 / 町田 康完全にあかんかった。サイアクなおわりかただ。
また明日。
信じられん。やつも死ぬのか。
あと二日。意外とするべきことがない。というか,しておかなければとおもうことがない。
何かに感動したいと思って本屋にいったがぐっとくる文章がない。音楽も。絵も。お酒も。食事は,美味しいと思うものがある。
世の終わりが近づくと退廃的な文化が広がるような話もあるが,それはうそだと思う。世の終わりが近づくと,より質素な生活になるはずだ。多くのものに価値がなくなり,洗練されていく。
残りが少なくなると,新しいものを開拓するよりも,昔感動したものを読み返すことのほうがいいのではないかとも思う。そうやって,ひっくり返そうにも,再び読もうと思う本はめったにない。もう一度見たいと思う映画はあるだろうか。感動できなかったときの悲しさが怖くて見ようとしないのかもしれない。
どれだけ残りが短くなろうとも,眠いものは眠い。無理して起きていても意味はない。
夏までは余裕で食べていたフランスパン一本だったが食えなくなっている。こりゃまずいとおもう。
あと三日。
やたらとハイテンションになってみた。
だはははははははははは。
あと四日。
やたらと眠かったり疲れたりと,あまり動く気がしない。世界の終わりが近づいているときはこんなものなのだろう。こんな中でも一日一日を充実させて過ごせる人はなんとえらいのだと思う。
あと四日で何が起こるわけでもない。ただ人間は区切りをつけないと生きていけない。一年,一ヶ月,一週間,一日,一時間,一分,一秒と,不必要に時間を区切る。時間は延々とだらだら流れるだけなのに。朝日が昇り,夜日が沈むのではなくて,ただ太陽は上に行ったり下に行ったりしているだけ。それを朝だとか夜だとかもっともらしく区切っているだけだ。何をいっているのかよくわからない。自分でもわからないから,ほかの人にはもっとわからないだろう。自分でわからないことが人にわかってしまうことはあるのだろうか。それはどういうことだ。
ときおり,人と話していてまったく話がかみ合わないことがある。ひょっとして自分がものすごい間違いをしているのではないかと不安になり,隠れて本を読み返し,自分と同じことを言っている箇所を見つけてほっとする。その本がものすごい間違いをしているかどうかについては何の疑問も抱かない。その言葉だけを信じていて,論理性や説得力についてはまったく考えていない。これはよろしくない。都合のいい言葉を見つけてくることばかりに血道をあげている。それが勉強だと勘違いしてはいけない。そう思う。読んだり写したりすることばかりで,考えたりすることがあまりない。どんどん馬鹿になっているようだ。
ある映画で,「あいつは自分が馬鹿だということもわからないのだろう。僕もそうなりたい。」なんてことを言っていたシーンがあった。そいつはこっぴどくしかれていたが。何を続けて書こうと思っていたか思い出せない。これはだめだ。
今日の幸運は,きびなご。百円ショップで買ったが,うまかった。それと,苦いコーヒーは,牛乳だけでなくて,チョコレートを食べながらだと非常においしい。ようは料理の仕方だ,何事も。ひとつの事実にどんな味付けをするか。どう組み合わせておいしく料理するかがポイントなんだ。煮ても焼いても食えないものは揚げてみる。それでもだめなら熟すまでまとう。
そうだ,もうひとつの幸運は,グーグルだ。グーグルドキュメントというサービスでは,パワーポイントのファイルが開ける。パワーポイントの入っていないパソコンだと,見られずに困っていた。ソフトを入れればできないこともなかったが,ソフトをいれずにウェブ上で見られて,しかも印刷ができる。ありがたいことだ。
学校のトイレが新しくなってから,小さなハエがよく壁に止まっている。あの,羽根の大きな小さなハエ。あれはなんと呼ぶのだろう。そういえば,名前も知らない。飛ぶわけでもなく,ただとまっている。それが何か不思議に見える。一匹一匹がどこに止まっているかを確認して,その点と点をつないで線にしてみる。黒くて小さな逆さのハートで星座みたいに見えてきて,便所の壁に満天の星空ができあがる。
調べたところ,チョウバエというのだそうだ。なんかうれしい。ずっと前から会っているのに,ずっと名前を知らなかった。
あと5日。
やたらと眠いし,やることは決まっているので,あと何日なんて考えている暇がない。この瞬間を除いて。
自分だけがいなくなるなら残された世界のために準備をしておかなければならないかもしれない。でも,世界が終わるのであれば何も準備は必要ないのだ。やらなければならないことのうち,将来への投資はもう不要なのだ。しかし,世界が本当に滅亡するとしたら,将来への投資は何もしなくなるのだろうか。未来への準備はしないのだろうか。そんなことはないだろう。ご飯食べたって仕方ない,人と会っても仕方ない,結局無に帰するのだからといって,ただじっとしてることもなかろう。ないとわかっていても,それなりに将来のために何かをしてしまうと思う。
今日は10個の幸運のことはほんの少しだけにしよう。
ひとつの発見があった。
コーヒーには酸味が強いのと苦味が強いのがある。それくらいは知っていたのだが,苦味の強いコーヒーを飲むときは,牛乳をたくさん入れると牛乳の甘みでおいしく感じる。酸味の強いコーヒーはストレートでもおいしく感じる,という好みが自分にあるということに気付いた。
そう,今日は行きの道で歩きながらこんなことを考えていた。
何かを誰かに伝えること。これが表現の本質だ。伝えたい何かがあって始めて表現を行う。ないという場合はそれが明確に意識できていないのだ。そして,伝える相手というのも同じだ。表現というのは外部に示す行為なのだから,誰かに伝えようとすることが本質的にある。ただ,その何を誰に伝えようとするかというのは単純ではなく,直接伝える相手が伝えたい相手であるとは限らないし,伝えている内容が伝えたい内容ではないかもしれない。
広告戦略で重要となってくるのが,いかに効率的に,必要な相手にCMを伝えることだそうだ。
では,このブログのような書き物はどうなるのだろう。何かという点がまず意味不明だ。何を伝えたいのだろうか。そして,誰に伝えたいのだろうか。誰というのには,明日の自分ということも含まれるのだろうか。などということをぐずぐず考えていた。基本的に,表現をするときには,何を誰に伝えるかという点を意識しながら行うことが大事なのではないかと思いついた。ただそれだけのことだ。
では,その反対として,インプットはどうだろう。正反対だったら,誰かから何かを学ぶこと,といいそうであるが,それはしっくりこない。必要な時に,必要なことを,知る。ということになりそうな気がした。情報の出所はそれほど問題ではない。信頼できる情報かどうかは問題となるが,それは必要とする情報かどうかを判断するためのものだ。
必要なときに知るためには,当たりをつけておくことがあらかじめ必要かもしれない。そうにしたって,必要なものが何かということをまず知っているところからスタートしなければならない。
などと考えていると,すべてが目的論のように思えてくる。しかし,どうなのだろうか。目的のない行為なんてないと言い切れるのだろうか。
あと6日。こうカウントダウンするだけで,なんとなくどきどきするものだ。
今日の10個の幸運のひとつは,星を見たことだ。夜空を見上げたら星があった。ずっと見ているとどんどん増えていった。月は見ても星を見るのは久しぶりだ。
いまひとつの幸運は今日が休日だったから行きの電車が空いていたということだ。帰りの電車は込んでいたが,誰かのコンサートがあったようなので,満足げな疲れた顔をした人達をたくさん見たのも心地よかった。
あとは,事務の間違いを早い段階で教えてあげたことだ。早い段階でミスを指摘できれば,それに越したことはないと思う。そうであってほしい。面子とかなんとかいろいろ考えるよりも真っ先に間違いを指摘してくれるのが一番うれしいことだと思うが,これは人によって違うのだろう。それもストレートのほうがいい。回りくどいと謝るのも御礼を言うのも回りくどくなる。これが幸運かどうかというと,若干微妙であるが,こちらも混乱しないですんだから,それでよい。事務の対応も早かったのでちょっと尊敬した。
もうひとつは,りんごを食べたこと。今シーズン初のりんごであったが,やはりおいしい。
もうひとつは,栗を食べたことだ。栗をゆでて食べるなんてずいぶんしていないのではないかと思う。おいしい。いつもは気付きもしない栗なのだが,先日話題になったことがきっかけであるから,何とはなしに話す話題も幸運のきっかけになるものだ。
6個目は,携帯の留守録設定の謎が解けたこと。以前は形態の簡易留守録が機能していたのに,簡易留守録がオンになっているにもかかわらず,留守電センターにメッセージが残るという自体がここ数ヶ月起こっていた。どうもそれは,メッセージが流れるのが同じ呼出秒数であったため,ある日突然留守電センターが一瞬早く取るようになったことによるのだと思う。怪しいが,とりあえず,そんな気がする。対策を取れたのでラッキーだった。
今日はチェゲバラの命日。チェゲバラは社会主義ゲリラ戦争の象徴だから名前を出すにも注意が必要なのだとずっと思っていたが,今ではTシャツやら顔写真やらが氾濫しているようなので,そういうことは気にしなくていいようだ。世の中というのは不思議なものだ。
今日は昨日の倍の幸運を見つけた。それにしても一日減ったのに何の準備もしていないから,片付けでもはじめてみようか。
あと一週間で世界が終わると考えよう。あと一週間で自分が死ぬことにしようかと思ったが,それだと縁起悪いし寂しいから,とりあえず,世界が終わることにする。
そうすれば,きっと毎日充実するに違いない。あと7日。さてどうする。
こんなことは幾度となく考えている。明日世界が終わるとしたらどうするというのは時折ふと頭をよぎることだ。きっと普段どおり生活をして終わるだろう,といつも考えている。
しかし,それはまともに考えていないからかもしれない。明日世界が終わるとしたら,と考えているうちに眠くなって明日が来てしまう。迫り来る恐怖というものに欠ける。だから,一週間にした。
しかしやはり,今日は普段どおりすごして終わってしまいそうだ。明日になると,あと6日,だんだん不安になってきそうだ。きっと一秒でも大切にすることになるだろう。やはり最後には暴れだしたりするのだろうか。
あと一週間と思うと,いろいろぼおっと考えることがあった。たとえば,携帯小説。
携帯小説がはやっているらしい。ブログ形式で小説が書けるとしたなら,物書きを目指している人なら,今までにないチャンスがやってきたと思うのではなかろうか。しかし,多くの人に一瞬だけ支持されるより,ほんの数人でもいいから,ずっと支持してくれる人がいたほうがいいと思うのなら,こびた小説を書かなくてもいいのかもしれない。売れる小説は媚びた小説なのだろうか。その点には疑問が残る。
そしてまた考えていると,法律ってなんだろうというところにいくのである。
きっと,法律というのは善悪の基準なのだろうと思う。法律が難しいのは善悪の判断というのはとても難しいということなのだと思う。法律の目指すところは,簡単に言えば,いい人を守ること。たったこれだけのことがとても難しいのだ。
法律を勉強しているということは,善悪はそう簡単に決められないということを学ぶことにあるのかもしれない。
勉強をしていてわかってくることは,結局のところ,事実認定などといわれる部分は,信じるか信じないかで決まっているのである。
信じるか信じないか。
こんなことでしか決められない。サンタクロースの存在と同じくらいに不確実なものだ。まあ,自己の存在しか信じられないというところから始まった哲学もあるようだから,この「信じる」ということは,やたら奥の深いものなのかもしれない。
そうだ,もうひとつ考えていたことがあった。残りの一週間を楽しく過ごすために。
こういうことを信じてみよう。幸運の神様がいると。僕たちは少しなれていないのもあって,幸運の神様が落としてくれる幸運になかなか気づかない。でも,一時間にひとつは必ず幸運が落ちている。気づくかどうかは本人しだい。慣れてきたら,30分にひとつ見つけられるようになって,10分おき,5分おき,そしてずっと幸運を見つけられるようになる。
僕が実質的におきているのはだいたい10時間くらいだから,一日に10個の幸運があるのだきっと。
今日は何個見つけたかというと,3個位かな。こんなことを思いついたということと,電車で偶然先輩に会ったということと,久しぶりに帰り道に猫をなでたこと。
見落とした7個が気になるところだ。
僕はPC族だ。携帯はほとんど使わない。
と,携帯族とPC族とでパーソナリティに違いが出るそうだ。
http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/0710/05/news080.html
どんなもんだか。僕は少数派だから。
統計というのは,こういう人が多いというものだから,少数派になる人には何の意味もない結果なのだと思う。割合で言ったって,数の多さでいったって,やはりそれもそこに含まれているかどうかは別問題。正しいかどうかも別問題。
多数派の言うことが正しいと多数の人が思っているならば,多数派を形成することが重要になるのだろう。しかし,真実は最後に現れる。多数派を形成することよりも,最後まで生き残ることのほうが重要なのかもしれないが,最後まで生き残るためには,多数派を形成しなければならないとしたら,結局同じことだ。
なんてね。
携帯を使わないだけで感情ないんかね…
環境対策として,バイオエタノールが導入されて,小麦が高騰しているらしい。ひとつの要因に過ぎないのではあろうが。
しかし,バイオエタノールを導入しようとしたときにすでに,小麦が高騰することは予想できたはずだ。小麦産出国が,環境対策を理由にバイオエタノール導入に積極的だったとすれば,見事にしてやられたということなのだろう。
しかしこれを契機に小麦以外の不用品からエネルギーを取り出す技術も成長するならば,成功事例となるのだろう。
何が真実かはよくわからない。真実は最後に現れるという格言の「最後」っていつなんだと思う。
初の三角合併が行われたそうだ。敵対的ではなかったとのことで,「恐れることはない」というコメントを見たが,しょっぱなから敵対的三角合併が行われるとしたら,それは世の末だと思う。
最近ほんの少しだけ,いい加減なコメントがわかるようになってきたのがうれしい。
新聞のコメントにもあったような気がしたが,TOBに応じなかった株主は今回かわいそうなことになると思う。外国の会社の株主になるか,安値(TOBに応じなかったのだからまだあがると思っていたのだろうから)の現金を交付されて追い出されるか,の選択肢しかないからだ。
ところで,メトロの広告で,「電車内での飲食は迷惑行為です」というのを見た。臭いが気になるという理由のようであったが,納得がいかない。
臭いが気になるのであれば,食べていなくてもマクドナルドの袋を持っているだけでもにおうし,たくあんを買ってもにおう。夕飯に揚げ物を買って帰ったらアウトだ。食べ物に限らなければ香水だってにおう。「電車内での悪臭は迷惑です」と変えたほうがいいのではないかと思う。
マナーにも時折おかしいものがあるのだと思いたい。
それはともかく,最近ニュースで話題の沢尻エリカとか言う人が識別できない。見分けがつかないというのは,やばいんじゃないだろうか。
とりあえず空調と思ってスイッチを入れたら,暖房が入った。ちょいまち。まだ早い。
ここんところ,目の悪くなったのもあって,遠くの人がよく見えないし,向こうが気づいているのかどうなのかがよくわからんし,話が下手なのも手伝って,挨拶したところでたいした話もできないし,挨拶終わったあとに話を展開するか否かで一瞬の時間の間があくのが怖いし,同じ人にしょっちゅう会うし,会うたびに挨拶するとなんだか「おはよう」「おっす」「こんにちは」「やっほ」「お!」「おつかれ」位のバリエーションしかないためすぐネタが尽きるし,向こうもあんまり挨拶しないし,ひょっとしたら挨拶したくないのかもしれない,などと,いろいろな言い訳をして,あんまり挨拶をしないでいたのだ。
がしかし,考え改めます。
今朝,通学するときに,学校の前で警備員さんと一緒になった。ちっと挨拶しただけだったが,いつもは建物に入るとき受付で互いに挨拶するだけだったのだが,外で挨拶したからなのか挨拶してくれるのが予想外だったからなのか,いい気分になった。挨拶ひとつでこんなにいい気分にしてくれるのだから,まったく警備員さんやってくれるぜ。ありがとう。
言い訳せずに,こっちからちゃんと挨拶して,ハッピーな気分になろうと思い直したのでした。
今日から郵政民営化。JPと略すらしいのだが,きっと,どっとジェーピーとかいって,商標の問題になるんだ。よく知らないけど。