東京はまだまだ暖かい日が続きますが,朝家を出るといたるところの木が様々な色に染まっています。木の種類によっても色が違うし,同じ種の木でも日当たり具合や,個性によっていろいろな色に染まったり,散る早さも違います。早く散り始めるものからなかなか散らないものまで,いろいろな木があるからこそ長く紅葉が楽しめるし,いろいろな色があるからこそ見ていて楽しい。
同じことを思うのは春の始まりです。春も桜の花だけではなくて木によって若葉に色々な色があって,そう,まだ芽吹く前から徐々に木が染まっていくのをみていて,全体として色づいているのに,どの部分を抜き取ってみても同じ色になる部分はないことに感動をしたりします。それも毎年毎年。
道を歩いていると落ち葉を集めてこんもり盛り上がった場所があります。そこに集められた落ち葉の一つ一つもどれひとつとして同じものがない。きれいな落ち葉を拾おうと思うとどれもこれも虫食いだったり色が鮮やかでなかったり意外と,これは,と思うのがなかったりしますが,それでよいのだと思います。色づいた葉っぱが集まっているだけで心が安らぐのですから。
春と比べて秋の勝るところは,まさに散ったあとでしょう。桜の花は散ってすぐは地面まで淡く桃色に染まりながら白く輝いていますが,そこを歩けば足跡は黒ずんでしまいます。それに比べて落ち葉の散ったあとは歩いても黒ずむことはなく,ふかふかの赤絨毯の床を歩いているような気分になります。
科学的に説明をしようと思ったらいくらかの説明は出来るのかもしれませんが,何のために赤く染まっているのかよくわからないのに,そんな余り意味のないことも思わぬところで感動を与えていたりしてそういうのがさりげなくていいと思います。
そういったさりげないものは紹介できない。求めて得るものではないし,勧めるにしてはつまらないから。そんな偶発的な,そして隙間な感じがなおさら心をくすぐるのだと思います。
最近自分の話が周りとかみ合わず,そして,つまらない事を自認している。話し言葉のみならず,書き言葉にも現れつつある。飲み会も断ってばかりである。
「どうして自分が目覚めたとわかったのですか」「私の声にこたえてくれたから」
そんな会話があったような気がする。
最後のほうで,動きが止まった人の手を動かしてあげて元に戻るシーンがあった気がする。そのときの「ありがとう」はなんだか重い。
困ったときに手を差し伸べてくれるのは大概悪魔である。悪魔は笑顔で近づいてくるものだ。相手にしないと耳の中に入って,消えるまでしばらくごそごそ動き回る。片耳がよく聞こえなくなって,自分の周りに薄い膜が張りはじめる。自分の声がゴンゴン響き,周りの音は雑音の混じったラジオのごとく小さく聞こえる。
そんなときに膜を破ってくれるきっかけはどこにあるのか全くわからない。いつの間にやら膜はなくなっている。ずいぶん前から悪魔は消えて,膜もなくなっているのにそのことに気付かずにいる時間が長かったりする。
モーガンフリーマンの「トイレに行っていいですか」という言葉が思い出される。
トイレひとつとってみても多数のステークホルダーがいるわけだが,やはりまず大きな用事を済ませるためのものであり,次に,掃除をする人のためであり,その次に,小さな用事を済ませる人のためであり,最後に鏡を見る人のためである。
まあそう考えると,トイレはまず「便所」であり次に「化粧室」であるべきだ。女子トイレは化粧室かもしれないが,男子トイレは便所でなければならない。
昔,英語の教科書で,トイレはbathroomというと書いてあった気がするが,トイレを「風呂」とはいえないと思う。いくら英語であっても「風呂」とはいえない。
新しいトイレが気に食わないといつだか書いたが,まあ,掃除が楽になるのであれば仕方ないと思っていた。しかし,どうも新しいトイレのほうが掃除が大変らしいのだ。ひどい話だ。
温便座がたまたま冷たかったからと言って文句を言っているわけではありません。
最近相撲は新聞でしか見てないのだが,それでもよくがんばってると言ってやりたくなる。
今日は入浴剤を入れてお風呂に入ったら存外に気持ちよかった。すばらしい。満月のおかげだきっと。
耳が開くのか,心が開くのか,突然すっと言葉が染みてくる事があったりして,それが言葉なのか,言葉を介した映像なのか,それとも感情そのものなのか,周りの音がふっと消えて,すべての動きが止まり,それなのに流れているような,何かに対峙しているのではなくて,何かそのものになっているような,自分が消えるっていうか,ほんとに,そういう瞬間は,雲の流れる夜の月みたいに,一瞬しかなくて,すぐ隠れてしまうから,大切にしなくちゃいけない。
それは言葉に限らなくて,絵だってそうだし,なんだってそうだ。
こんなにきれいな満月の夜も,大切にしなきゃいけない。
桜木花道のフリースローがはじめて決まった瞬間みたいな感じかもしれない。
言葉じゃ伝えられないことはたくさんある。でも,言葉しか方法がないときもたくさんある。
最近,少し好みが変わっている気がする。
こんなに借りてるのは,ツタヤの百円引き券の期限が迫っているから。
りんごはスターキングが一番うまい,と思う。
先日,罪の軽重について問題があって,一番重いところと一番軽いところのどちらを見たらいいのだろうかと悩んでしまった。確か重いほうを基準にするらしい。
食べ物で言ったら,自然のものだから,美味しいものも美味しくないものもあるが,まずいときのまずさを基準に考えるか,美味しいときの美味しさの基準で考えるか,それともその平均を取るべきか,偏差をとるべきか,いろいろ考え方があるだろうが,やっぱり一番うまいときを基準にしたいと思う。
それだと,スターキングが一番だ。
昨日家に買って帰ったスターキングは,半分以上が蜜だった。りんごの常識を打ち破る傑作だったと思う。マスターピースだ。
ヘッセは中学の課題図書で車輪の下を読んで,暗くて,主人公が年上の女の人に遊ばれたところしか覚えていない。特に感動を覚えなかった。だが,つい手にとってしまったのがこの本。
やはりあんまり好きじゃないけれど,そういいながら最後まで勢いよく読んでしまったのだから,やっぱりいいんだと思う。
ようやく寒くなってきた。嬉しいことだ。昨日おなかを壊したおかげで今日は調子がよかった。ようは食べ過ぎていたのだと思う。
人間,気付かぬうちに陥った悪癖から抜け出すのはなかなか難しいものだ。気付いていないのだから。
事の発端は,あるお店で,500ミリの牛乳が128円で売られていた隣に,1リットルの低脂肪乳が98円で売られていたことだ。
当然おなかを壊したわけだ。
コーヒー飲んでハイになった後は、ほんとにだるくなるのだ。もう、体が半分伸びきってしまって、指の長さは二倍になるけどあんまり軟らかくて途中でグニャグニャ曲がってしまうし、ひざは反対側に曲がり、頭は鎖骨あたりまで下がってきてしまう、そんな感じになる。で、元気になるにはコーヒーしかない、と思ってまたコーヒーを飲んでしまう。これが依存という。飲むとまたハイになってしまうんだからしょうがない。
ほんと、ノンカフェインデーを作らないと、そのうち禁断症状が現れると思う。
ところで、近くの学校に二宮尊徳がいるんだが、やつの太ももはとてつもなく太いということに今日気づいた。やはり、足腰の強さは重要だ。尊徳さん、尊徳さん。なんだかつい目がいってしまうのですよあなたに。
ふと、広告で脳内メーカーとかいうのがあったのでやってしまった。この結果には少し笑ってしまった。どうせ謎ですよ。
気持ちばかり先走って頭がついてこない。すっごいわくわくしてるのか,すっごいいらいらしてるのか,すっごいおなかへってるのか,すっごいねむいのか,なんだかぜんぜんわからない。とりあえず,ハイなんだと思う。たとえば,ウンテイで右手でつかんで,左手を離して,左手を次に出さなきゃいけないのに,あんまりわくわくして両手を離して真っ逆さまみたいな感じだ。一個手につけると10個やりたいことが浮かんで,途中でほっぽり投げて次の一個に手をつけるとそこからまた10個やりたいことが浮かんで,ってなってくと,バブル崩壊するのだ。
コーヒー飲むと時々なる。飲まなくてもなってるのかもしれない。因果関係の有無が一番世の中で難しいんじゃないかと思う。
だから,とりあえずノーカフェインデーを作ろうと思う。
僕はいたって正常だ。みんながおかしいんだと思う。
って書くと狂ったと思われそうだ。ま,何を信じるかはその人次第。本当に僕は狂っているのかもしれないし,そうでないのかもしれない。どちらでもたいして変わらない。
まるで羅生門みたいだねえ黒澤さん。僕も騎馬に乗って学校行きたいよ。ワンダ飲んだらいいかな。でもそしたらハイになっちゃうよ。馬場さんのキックは痛いからやだよ。
ぐう。どうやってもきちがいっぽい。どうしよう。ポンパ!とか言ってみたら文学的に聞こえるだろうか。あさっての人は一昨日きやがれとか言われちゃうんだよきっと。そしたらちょうど今日じゃんね。
「号泣する準備は出来ていた」のだ。だって「僕は勉強ができない」。だから「笑う月」を見ながら「タンポポのお酒」に「溺レル」のだ。
話題と言うのはいろいろあると思うが,過去の話題,現在の話題,未来の話題に分類してみた。
ただ,分類してみた。
英語だったら,と,ふと思った。
最近書こうと思うことが意味不明すぎて困る。
たとえば,帰り道ハクビシンが電線を伝って歩いているのを見て,携帯で写真を撮ろうと思ったらシャッターを押した瞬間携帯がぶちっといって電源落ちて,それ以降何度写真を撮ろうと思っても電源が落ちてしまう。それが,お寺の前だったという怖い話なのか,そのときのハクビシンの尻尾がゆらゆらしてたのがなんだかワクワクしてしまったのにシャッターチャンスを逃したというところにポイントがあったのか,ずっと追いかけているうちにいつも入らない道に入ってしまって暗闇だったから怖かったような気もするけど,新しい道を知って嬉しかったような気もする。
何が言いたいのかわからない。
最近,帰り道で女性の後ろになってしまうととても嫌な気分になる。ぞろぞろ人が歩いているにもかかわらず,後ろに人がいるとなるときょろきょろ後ろを振り返り警戒される。できるだけ早歩きして追い抜いて前を歩かなければならない。スーパーの買い物袋に果物やら野菜やらを詰め込んだ人間がどうして警戒されなきゃいけないのかまったくもって意味不明だ。こうやってお互いがお互いを警戒していると心が荒んできてよくないと思う。あったかい気持ちで帰り道を歩けるように,青い蛍光灯ではなくて,赤い電球のほうがいいと思う。
なんて思いながら帰ってきてテレビをつけたら,椿山なんちゃらの何日間とかいう,大変おめでたい映画をやっていた。おめでたいといいながら,ちょっと涙ぐんでしまったあたりが笑える。途中から見たのであんまりストーリーがよくわからなかったのだが,どうも思い残すことを果たすまで少しの間を生き返らせてくれるという話だったようだ。
「もう思い残すことはない」なんてフレーズが頭に浮かぶ。誰かが言っていたのかもしれないけれど,それはどうでもいい。この映画でなくても,ファウストでもいっていたような気もするし,平家の誰かが言っていたような気もする。葉隠にも書いてあったような気もするし,どれもこれもそんな気がするというだけで申し訳ないのであるが,とにかく,もう死んでもいいと思えるような出来事というのは,あるらしい。平家の誰かの場合は逆のシチュエーションだったような気がするが,そんな幸せって,どんなものなのだろう。ずっと続いてほしいと思うのでもなく,もう満足してしまうような幸せ。
ちと考えが甘いな。とどめておきたい幸せっていうのもあるのか。でもそういうのって,思い出すだけでも幸せだったりはしないのだろうか。
以前聴いていた音楽をふと聴きなおしたりすると,なぜだか,ある曲が流れると,ほんとにある光景が頭をよぎったりする。ある曲の時にはブー通りだったり,ある曲のときには早稲田通りにあったがついぞ入ることのなかった怪しげなおもちゃ屋だったり,ちょっぴり古いのでは,予備校を思い出したりして,記憶というのはいろんなものにつながっているのだと思うのである。今聞いている曲は,何を思い出すきっかけになるのだろうか。いい思い出だといいな。
そう,きっかけさえくれればあとは簡単に走り出せる。
友人から借りたCD。なんだかしっとりした気分になる。ユラビューティフォって歌ってたときのちょっぴり悲しい歌声がここにもある。あたらめて歌というのは不思議だと思う。洋楽は語学力が足りないため歌詞の意味がほとんど聞き取れないけれど,声だけでも伝わってくるものがあるし,メロディーからも伝わってくるものがあるし。
そんなきっかけもらったものだから,ツタやで半額セールやってるのもあって,これは新作だったから半額にならなかったのについつい借りてしまった。日本語だと歌の言葉が語りかけてくる。少し落ち着いてしまったな,と思ったけれどそれはそれで好き。
ひょっとしたら,僕の記憶が間違っていたのかもしれない。昔はMDで聞いていたものだから,今じゃ持ち歩いて聞けないことに気付いて,また借りてしまった。不思議なもので,音は新しいものより落ち着いているのに,言葉は反骨。焦りながら,振り返って段々駄目になっているような気がして悲しくなって,それでも無理やり突っ走ってしまうような,いろいろ抱えながら走ってる,ちょっと昔の自分たちみたいな,変なたとえだけど早朝のゴミ収集車みたいな感じ。
なんて,日本語はちょっぴり強いから,聞いていると疲れてしまう。だから洋楽も聴きたいなと思ってしまう。言葉が聞き取れなくても,耳元で落ち着いた声で人が話しているだけでも少し落ち着いた気分になれたりするものだ。
文化的なことしないで終わっちゃうなあ。
朝やってる。呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃ〜ん!!