せっかくの傑作を破り捨ててしまう人がたまにいる。その作品を正当に評価してくれる人がいないか,自分が表現しようとしたものになっていないか,それとも,先に進む際の誤った道標になりかねないからかもしれない。
何かを表現しようとするとき,そこにある意図は一つであるわけがない。いくつもの意図が混在している。受け取るときもまた同じだ。表現のどこにその意図を載せるかを意図的にすることもあれば,思わぬところにその意図が出てしまうこともある。受け取るほうにも,いくつもの意図が混在している。受け取ること自体もまたひとつの表現だと思えばいい。
たとえば教科書を読んだとき,そこから読み取られることは,自分からのメッセージだ。多くのアイデアは,生み出されるものではなく,発見される類のものかもしれない。
試写会行ってきました。偶然手に入れた幸運です。一人で行ったけど,それでも結構面白かった。瞬間移動できるようになった人の話。自分も瞬間移動出来たらどうするべきか色々考えてしまった。何が一番楽しいかなあ。移動にお金かからないのはいいなあ。
ビル街を歩いていたら空から枕が降ってきた。いみがわからん。
隣の席に増えていくプレゼント。しかも女の子から。
早稲田太郎の机は汚すぎて誰も手が出せない。むしろ一種のアート。大量情報化社会の触れただけでも崩れそうな脆い世界を表現しています。
あー,せっかく書いたのに間違って全部消した。
ウイルスソフトがアップデートをしてくれない。これって感染してるのかなあ・・・
僕は鈍いっていうのか,ちょっぴり脳みそが足らんのだと思う。ずいぶん後になってから意味を知ることが多い。
今日帰り道,ずっと電車の中で誰かの携帯電話がマナーモードでなり続けていた。電話に出るか,メールするかしてくれればいいのにと思った。しかし,余りになり続けているので,だんだん,いろんな事情があるのではないかと思い始めた。喧嘩してるのか,出たくない人からの電話か,ストーカーか。かわいそうに。そう思って我慢した。そして,終点で降りようと思ってふと座席を見ると携帯電話が一個落ちている。そして,ウーウー震えている。
ただ単に誰かが携帯を落としたのだということにようやく気付いたのだ。
そして,あわてて電話を取って「今携帯を拾いました」と伝えたところ「取りに行きます」というので「じゃ,駅員に渡します」といったところ,「駅員に渡したら,駅員から今かけてる番号にかけてもらってください」と頼まれた。意味もわからず了解し,駅員に頼んだところ,そんなことはできないという。そらそうだ。なんで駅員が電話しなきゃならんのだ。と思い,仕方なしに自分で電話した。この行動もなんか馬鹿っぽい。とりあえず電話をかけて,「今駅員に渡します」といったところ「駅員に代わってください」といわれたので,代わってもらった。意味わからんなあと思い帰り道に気付いた。
自分が疑われていたことに。駅員に渡すといって渡さずにどこかに行ってしまったり使ってしまったりしないか疑っていたのだ。そして,その携帯がソフトバンクであったので,ローンの残りを考えれば用心するのも無理はない。
ちなみに,僕はもうひとつミスを犯した。電話の主が持ち主であることを確認しなかった。不在着信が10件あり,携帯が落ちていて,それでかかってくれば持ち主に違いないと思い込んでいた。駅員はさすがに偉くてちゃんと「持ち主の方ですか」と確認していた。なんか鈍いなあ,自分。
しばらくたって思い出せば,そうだったのかと気付くことが多い。ふと振り返ると,あれも,これも,そういうことだったのか。疑いもしなかった自分はなんとも馬鹿なことだと。
でももっと馬鹿らしいのは,すべてがわかっていたとしても,そのとき自分が取れた行動は,そのときとった行動となんら変わりがないであろうということに気付いたときだ。そんな風に振り返ってみると,そのときの自分は気付かなかったのではなくて,気付かないふりをしていただけなのではないかとも思う。
気付くことが増えても,出来ることが限られているならば,何の意味もない。どう対処したらいいのかがわかればいいのだけれど,うまくいかないことが多い。後になってから後悔する事すらできない。「ああすればよかった」という案が浮かばないのだから。
「想定の範囲内」とか言いながら,突っ走るのが一番かな。やっぱり,気付かないよりは気づいたほうがいい。知らなければよかった,ではなくて,知っててよかった,だ。いや,やっぱり,予想できるのなら,出来る限りの手を打つべきだ。なんて抽象的なことばかり考えていて,いくつかの幸せを逃したような気がしてならない。
しかーし,いい事だったら,気付いても気付いても,その流れを見失わないようにするだけでいいのだ。持ち主に携帯電話が戻ってよかった。そう,それでいいのだ。
今日はいい天気だったのと,マラソンのニュースに触発されたのとで自転車で学校に行きました。
体力の衰えを感じた。がんばりまっする。
筋肉は,いろんな所がいろんなところを補っているらしくて,予想外のところに疲れがきたりして不思議だった。最初に腿に力が入らなくなるのはもちろんのこと,今まで痛くなったこともなかった所が痛くなったりして面白かった。
帰り道にいつもよる神戸屋がつぶれてた。かなりおいしいパンだったんだけどなあ。お店がつぶれる原因は,お客の評価だけじゃなくて他にもいろいろあるのだろうけれど,自分の評価しているお店がつぶれてしまうのはやっぱり残念である。
たしかに,つぶれなくても味が変わったり味覚が変わったりして同じものを手に入れることはできなくなることも多い。でも,あるとないとじゃ大違いだ。
神戸屋といえば,以前,駅前の神戸屋がつぶれるときにも,フランスパンを買ってあまりにおいしくて感動したことを思い出す。ずっと前に書いたと思う。その時見たパン窯をふと思い出したりして,窯の一つ一つ,焼く人一人一人,その時々で味は変わる。それは当然のことだ。ということに気づいた。
結局,人はパンを食べてるんじゃなくて,過去を食っているんだろうと思う。
昔,家の近くの駅前には桃の木というパン屋と,神戸屋が張り合っていて,競争してた。いつのことだったか,桃の木は負けてつぶれ,しばらくたってミスタードーナツが入った。神戸屋の後には,ボーダフォンが入って,今はソフトバンクだ。思い出すのも懐かしいことだけれど,実は僕の行動は思い出しもしないこういった過去の経験から決定づけられているのかもしれない。桃の木のパンが美味しかった記憶が,今の僕をミスタードーナツに引きずり込んでいるのかもしれない。
最近当たりまえのことに改めて気づくことが多い。初めて知ったのか,思い出したのか,どちらかよくわからないけれど,それは大きな問題じゃないと思う。ただ,もし今知ったのだったとしたら,僕はあまりに世間知らずだということだ。そして,忘れていたのだったとしたら,あまりに忘れっぽいというだけのことだ。
やたらと眠いし,めがしょぼしょぼする。
今日は寒かった。水溜りの水が完全に凍って,道路が乾いていた。氷があるのに,乾いている。なんとも不思議な感じがするのだけれど,それは当然のことだった。
ドーナツの真ん中は穴の開いている部分じゃない。そこは外側だ。
ブンナよ、木からおりてこい (新潮文庫)いつだかしんぶんの書評に載っていて,引きこもり童話のようでおくが深いと書いてあった。そういえば小学生の時分に読んだような気がするなと本棚をあさって読み返してみています。
ほぼ完全に忘れていて,色々と考えさせられることが多い。同じものを読んでもずいぶん感じるものが変わるものだと思ったのでした。当時読んでも理解できなかったことが今ならわかるという発展的なものではなく,当時感じたことはたぶん今感じられないし,今感じたことは当時感じられなかったというものなのだと思います。
踵が擦り切れてなくなってしまった靴があります。踵がないと安定しないので電車で揺れるとすぐふらついてしまいます。大して困るわけでもないので放っておきました。しかし今度は内側の底が見えてきたので,買い換えようかとも思ったのですが,靴屋に行って新しい靴を探していると,だんだん古い靴に愛着がわいてくるのです。ちょっと前まで早く新しい靴買いたいと思って,ちょっとひきずって歩いてみたりしていたのに。いい靴がなかったというのもあるんでしょうが,新しい靴を手にとっては,重さが軽すぎる,,とか色々難癖をつけて棚に戻し,店員が寄ってきては逃げ出すという,まあ,店員を見て逃げ出すというのはいつものことなのですが,やっぱりこの古い靴が好きだと思ったりして,店を後にするわけであります。
そして,仕方なしに靴修理のお店に行きました。決心をつけようと思って。直せないといわれれば諦めがつく。で,見てもらったら,「こりゃもうスポンジまで擦れてるからくっつけてもすぐ取れちゃうよ。ほかんとこも穴あきそうだし,寿命だな。新しいの買いなよ。」と言われました。ようやく諦めがついたとほっとしながら,新しい靴どこで買おうかとルンルンで帰り道歩いていたのに,やっぱり,しばらく歩いていると,「本当にこの靴はダメなのだろうか。まだこんなに歩けるのに」と思い出すわけです。「あの修理やは直せなくてそんなことをいったんではなかろうか」。
別の日に,また別のお店に行きました。靴の修理屋は意外とあります。そのお店では,見たあとに「ここにゴムを当てる形になりますが,直せます」というではありませんか。やっぱり嘘つきだったか。そう思いながら,値段を聞いて,「すぐとれちゃったりしませんか」とも聞いてみたのですが「そんなこと聞いたことありません」と力強く言うわけです。なるほど。そう思いながら,今履いているこの靴を渡すわけにもいかないので,日を改めてもって来ます。そういってお店を出ました。
よかったよかった,そう思って,駅に向かって歩いたら,もう一軒,修理屋さんを見つけました。どっちが安いかな,と思って,その店にも行って,見せたわけです。すると一軒目と同じように「スポンジにゴムをつけてもすぐ取れてしまいます。」というではありませんか。そして「靴底を全部張り替えれば大丈夫ですが,それはメーカーさんに頼まないと」と言われたわけです。
こうなりゃ意地です。その足で,靴屋に行き,「この靴修理してください」といったわけです。何度も見に行きながら,買いもせず,ぶつぶついいながら店員を見ては逃げて回っていた店に。ずっと逃げ回っていたので気付かなかったのですが,なんとその店員が偶然小学校の同級生だったので驚いてしまいました。しかも「前も来てたよね」と言われたのですから,逃げ回っていたのを何度も目撃されている。ま,そんなものか。
そのメーカーの靴は置いてあったので,大丈夫かと思いましたが,メーカーでもパーツ生産終了のため修理できないとのこと。「じゃあ,今度お金もって買いにくるわ」と言いながら去りました。
さて,パーツ生産終了と言われてしまえば諦めがつきそうですが,本当に終了してるのか,確かめずにいられなくなってきました。靴の手入れだとか,早めに修理をだとか,そんなことがよく書いてあるメーカーだったのです。家に帰って早速メーカーのホームページを確認,ある型のパーツが生産終了となったとのニュースを発見。しかし,その型かどうかがわからない。違うような気もする。いや,違うに違いない。
翌日,朝一番で,メーカー直販店に電話しました。
修理できないそうです。
靴一足のために,ずいぶんがんばってしまったような気が。
ほんと,モノやサービスにあふれているようで,欲しいものは何も見つからず,手に入らない。こだわらず,流行に乗ってポイポイとっかえひっかえしながら過ごしていくには便利だけれど,息の長いものを見つけようとすると,なかなか見つからないのが世の常ってもんです。
雪積もる夜に,坂道滑って遊んだ靴がそれなんですけどね。いつも馬鹿みたいなことに付き合ってくれてありがとう。今までより大事に使うから,靴じゃなくなるくらいぼろぼろになるまで,もう少しよろしく。
僕の話は酔っ払いの話のごとく何度も何度も同じ話。でもそれは本当に同じ話なのかわからない。月をさす指の話はきっとしたと思う。言葉はすべて月をさす指。指ばかりを見ていても月は見えないのであります。会話の中であっても,伝えたいのはその言葉ではなくて,その言葉の先にあるもの。会話だけでなくて,文章も,歌も,音楽も,絵も,すべての表現物は月をさしている。誰であっても経験はあるだろう。遠くの何かをさして,ほら,あれ。どれ?ほら,それだよそれ,この指の先。自分にはしっかり見えているけれど,相手にはそうではない。相手にちゃんと月を見つけてもらうためにいろいろ言ってみたりするものです。
相手に示したい月がなにか,自分でもよくわからないときもたくさんある。色々とってもらってるうちに気付いたりすることもあったり,別のものでも事足りたりして,まあ,そんなふうに月というのは自分でもよくわからないものです。
示されるほうにだってわからない。月をさしているのに,その隣の星を見てしまったりすることも多い。全くの勘違いだったかもしれないけど,偶然気付いたその星にやたら感動してしまったりすることも。そんなに感動するものだから間違えていたことに気づかなかったりしても,でも感動を通じて何かを伝えようと指さしていたのだったらそれで通じてしまったりする。悲しいことに,知りたくなかったことに気づいてしまうことだってあるのも事実。
同じ言葉で同じように語られているのに,あるとき突然月が見えることもある。きっとそんな時は,その人のそばに寄り添えたときなのだと思う。その人が傍まで来てくれたのかもしれない。
どこにいても同じ月を見られる人を他に見つけたら,きっとそれはとても幸せなことなんだろう。それはもう双面的な関係を超えて,月にぶら下がった関係になる。お互いがお互いに気持ちを伝え,受け取り,それが間違っていやしないか,嘘じゃないか,信頼できるのか,疑いながら牽制して,欺かれないように構えて,疑われないようにコミットメントする,なんて面倒しなくても月さえ眺めてればいいのだから。
月の数はどのくらいあるのだろうと思う。僕達は本当は月を示したいのに,そのずいぶん手前のものを指し示してしまう。そのずっと先にある月は,ひとつなのだろうか。満ち欠けして,ひとつであってもひとつでないのかもしれない。
暗闇で空の月を指すように,心の底の月をさすような話。立っているところと,示そうとしているものの距離は同じくらいに遠い。水面に映った月を拾いに行くような話。
山村浩二の「頭山」というアニメーションを見たことを思い出す。どこかで賞を取ったんじゃなかったかと思うが,あの,頭の池に投身自殺のシーンが浮かんでくる。言葉から始まって,イメージになって,関連したイメージが一気に吹きあがっていって,それらが全部一つに重なって,細切れのフィルムを無理やりつなぎ合わせて高速に映写したようなぼんやりとした映像のようなものを,また言葉に直してみる。
主観的アプローチだなあと思う。アートに対するアプローチにはきっと客観的アプローチと主観的アプローチがある。主観的アプローチはあくまで自分の立っている場所から月を探そうとする。客観的アプローチは相手の立っている場所から月を探そうとする。たとえば絵を見るとき,その絵を描いた人の背景を確かめて,どんな人物だったのか,今までどういう絵を描いてきて,この絵に描かれたものがその人にとってどんな意味を持つのかをずっと探っていく。それらは誰にも共有できるものだから客観的アプローチと言っていいんじゃないか。僕はそんな風に絵を見られたためしがないからよくわからないんだけど,ってそこまで言うとうそっぽい。
対して主観的アプローチは,その絵を見た時に,例えばその絵にある木が,今まで自分の見てきた数えきれないほどの木を重ね合わせて見る。実際に触れたもの,写真で見たもの,話で聞いたもの,匂いや,温かさ,歌,音楽,木にまつわるストーリーなど,すべてを重ね合わせて一本の木に乗せる。当然,今まで経験してきた全部を思い出すわけではなくて,その絵を前にした時に思い出されるすべてのストーリーを重ねる。絵に木が一本だけ描いてあることなんてめったにないから,他の部分を見るたびにまた他のものが重なって,ちょっと広く見てもまた別のものが重なってきて,それが一枚の絵。全部重なって気持ちがざわざわいったところが,月なんじゃないかと思ったり。
どこまでも抽象的な話。
そうね。書くことというのは,客観的になっていいね。たとえそれが抽象的であっても,頭の中よりは具体的だ。一週間分の空想は字にしてみたら全く月をさしていない。
まあ,そんなことはさておいて。
昨日の夜は雪でした。学校行って,雪が降るまで待ってから帰りました。つるつるすべる靴をわざわざ履いて,すべる〜すべる〜といいながら,ルンルンで坂道。坂を下りたのは一番だったと思う。勢いをつけてスーッと行ったからね。楽しい。たまらなく楽しい。凍ってるんじゃないかと思って朝楽しみにして外に出たら,溶けてた。また降らないかなあ。
たぶんあとで書き直します。きょうのみかいでした。くらすないけっこん。があるそうです。おめでとうございます。人間関係は自分の与り知らないところでどんどんと進んでいくもののようです。何事もそうですね。流行り廃りの多い世の中,息の長いものを見つけるのがいいと僕は思います。でも息の長いものはもう廃りはじめているのかもしれません。しかし,息の長いものは凋落を始めてからも長いんです。深い息をすることはそういうわけで大切なのです。ひとつ息をする間に,色々なものが浮かんでは消え,一時代過ぎてゆきます。どこまでも遠浅の砂浜で自殺しようと海に向かって歩いていくようなものです。水面が踝から膝になるまで10年くらいかかります。そのうちに潮が引いてまた踝に戻ったりする。
ゴーゴリの鼻を買いました。けっこういいですね。ナンセンスで好きです。偏屈みたいで,なかなかいいものが見つけられず,本屋で30分以上悩んで買いました。こんなのばかり読んでるから,最近日本語がおかしいんじゃないかと思います。新訳は入りやすくていいですね。それにしてもこのなめた表紙がたまらん。