続早稲田太郎的日記

続早稲田太郎的日記

楽天的な夢

大相撲最後の一番で相手は朝青龍。あたって前回しを引いただけで朝青龍はひっくり返った。静まり返る国技館。「弱い!」とかっこよく決め台詞をはいて顔を見たら白鵬。気分いい目覚め。

新しい道を見つけて調子に乗った早稲田太郎は久しく通っていない道を通って帰ろうと思った。あんまり久しぶりなもので,ひょっとすると暗くなってから通るのは初めてだったかもしれない。街灯もほとんどない暗くて細い道,連なる家の窓からこぼれる光と笑い声。それがまっすぐ続いていた。

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草枕ー夏目漱石

冒頭部分を引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故(ゆえ)に尊(たっ)とい。
 住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画(え)である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云(い)えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧(わ)く。着想を紙に落さぬとも鏘(きゅうそう)の音(おん)は胸裏(きょうり)に起(おこ)る。丹青(たんせい)は画架(がか)に向って塗抹(とまつ)せんでも五彩(ごさい)の絢爛(けんらん)は自(おのず)から心眼(しんがん)に映る。ただおのが住む世を、かく観(かん)じ得て、霊台方寸(れいだいほうすん)のカメラに澆季溷濁(ぎょうきこんだく)の俗界を清くうららかに収め得(う)れば足(た)る。この故に無声(むせい)の詩人には一句なく、無色(むしょく)の画家には尺(せっけん)なきも、かく人世(じんせい)を観じ得るの点において、かく煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)するの点において、かく清浄界(しょうじょうかい)に出入(しゅつにゅう)し得るの点において、またこの不同不二(ふどうふじ)の乾坤(けんこん)を建立(こんりゅう)し得るの点において、我利私慾(がりしよく)の覊絆(きはん)を掃蕩(そうとう)するの点において、――千金(せんきん)の子よりも、万乗(ばんじょう)の君よりも、あらゆる俗界の寵児(ちょうじ)よりも幸福である。
 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐(かい)ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏(ひょうり)のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日(こんにち)はこう思うている。――喜びの深きとき憂(うれい)いよいよ深く、楽(たのし)みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片(かた)づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖(ふ)えれば寝(ね)る間(ま)も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支(ささ)えている。背中(せなか)には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽(あ)き足(た)らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……
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青空文庫
より

とまあ,冒頭部分でこれだけ的を射たことを書かれてしまうともう先を読む気がしなくなってしまうというものです。ちなみにまだ30歳ではないので,先のことはわからんといいたいところですが,まさに先日言わんとして断念した部分が書かれていたので,経験に先立つ直感ということにしてそこまで引用しました。直観ではなくて直感。

今日は法哲学の授業を受けていて色々な疑問が浮かんだわけでして,危険思想ともとられかねないわけですが,これは学問の自由によって保障されているものであるから学問の枠を超えない限りにおいて安全ですからお願いですから通報とかしないでください。


まず,法は何かを禁止するのか,ということです。考えやすい刑法をお題に。たとえば,刑法は人を殺してはならないと定めているように見えます。しかし本当にそうなのか。
条文を引用してみます。

第199条(殺人)
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。


どこにも,「人を殺してはならない」と書かれていないわけです。とすると,この規定は単に人を殺すことを禁じているわけではなくて,実は,「死刑または無期若しくは五年以上の懲役」を受けたくないのに「人を殺し」てはいけないという事を定めているのではないかとも読めるわけです。文言上は。

本当にそれでいいのだろうか,と思うわけです。

どこかの記事でひろゆき氏が無敵の人の増加というタイトルで似たような違うようなことを書いていまして,ひろゆき氏というとそれだけで嫌いな人とかいるのでしょうから聞くに値しない議論として門前払いしてもいいのでしょうけれど,アイデアはもらってしまったので名を挙げないわけにはいかない。

この場合は,これ以上失うものがない状態の人は何でもしかねないという意味で使われているように思えますが,発想の転換として,金持ちとかだったらどうでしょう。罰金刑しかない犯罪は,金持ちは,罰金を払ってもいいと考えているのであれば,犯してもかまわないということを意味するのでしょうか。恐ろしい。

こういう危険な発想を思いついてしまった場合の対処法は二つ。一つは考えて否定する。もう一つは,考えずに否定する。どちらも大して変わらないんじゃないかとも思う。

考えるのをやめます。

あ,ちなみに法哲学の授業でこんなことをやっているわけではありません。法実証主義だとか,法原理がどうだとか,そんなことをいっていた訳ですが,法原理がどうとかそういう場合って,たぶん自然法に近いんじゃないかと思って,規定はされていないものの既に存在する何らかの規範を発見してきて適用する,という考えだとすると,発見される以前はやはり正しいことになるのか,とか,思いっきり後出しじゃんけんじゃん,とか色々思うものの,そうでもないと,みんなで寄ってたかって,ひどい法律作ったときに立ち向かう方法がないんじゃないかとも思ったりして,まあ立ち向かうといっても,結局みんながあとから,ちょっとまずったなあと思ったときにしか救われないし,その時はなんだかんだいって人のせいにして終わらせるんだろうなとか思うと,どうしようもなくなってくるわけです。じゃなくて,そういうことを考えているうちに,法は何を規定しているのだろうかということを考えるにいたったわけです。

で,考えるのをやめます。そうそう,われわれは拍手さえしていればいいのです。

一つ一つの言葉が皮肉に満ちていて,そしてそれらがすべて人の言葉をコピーしただけで,コピーしたことをもって責任逃れしているようで嫌です。はい。

ですので,明るい話題。

今日は新しい道を発見したのです。通学路。この二年半,駅から学校まで,道という道を彼方此方入ってみて,すべての道を通ったと思っていたのですが,今日,偶然,新たな道を発見したのでした。

こういう道は,夢のようにすぐに忘れてしまって一度しか通れないことが多いのですが,帰りもちゃんと見つけられました。

どうして今までその道が見つけられなかったのかというと,その道は途切れているように見えたからです。近寄ってみると,信じられないくらい急な階段があって,下まで道がつながっていました。なぜ気づいたかというと,そこにガードレールがあったから。そして,気が向いたから。


サミット終わったからちょっとは監視がゆるくなるかと思って勇気を出して書いてみました。

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