今日は午前中に大量のエネルギーを消費したので久しぶりに昼飯を食おうと,例の心のオアシスとも言うべき中華料理屋に行ってしまった。中華料理屋というのはすばらしいことに,休日も開いているわけで,頭が下がる思いです。
久しぶりの中華料理屋。好きなら毎日でも行けばいいのにともおもうところではあるが,あんまりすきになってしまうとよっぽどの事がないと行ってはいけない様な気がしてきて,軽い気持ちで好きだったときよりも行きづらくなるのであります。
あんかけやきそばは,本当に美味しかった。うまいという感動をかみ締めるのに,言葉は邪魔でしかないと食べている最中に思ってしまうくらいうまいのである。ついでにいうと,誰かに伝えるのももったいないくらいうまいと思ったのである。食べながらうなってしまったのである。
食べ終わるか終わらないかというときになって,知り合いが5人で店に入ってきた。挨拶をしたところ,初めて入るというので「ここちょ〜うまいっす」と言って,ふと考えた。この人たちにとって食べるという行為がどのような意味を持つのか知らずにうまいかどうかを語るのは間違っているような気がする。それは,味覚以前の問題だ。
なんとなく,言って損したなあと思った。うまいという感動が言葉にした瞬間,タイヤの空気が抜けるようにぷしゅうと少しだけしぼんで,そのことばが「ちょ〜うまい」とかいうなんとも卑属な言葉であったことによりさらにしぼみ,挙句の果てに,感動を伝えようとしたその行為そのものに嫌気が差したのである。
ところが,あんかけやきそばのパワーはそんな小さなことでなくなりやせず,それどころか,水を得た魚のように喜びはじけ始めたのである。それは,席を立った瞬間。ちょっと重くなったお腹を感じたとき。これが妊婦の幸せなのかもしれん,とお腹をさすりながら,店を出てなんとなく手を広げ,しあわせ。これがしあわせ。あのやまのあなたに幸い住むと人の言う。我人とめゆきて,満腹になって帰りきぬ。掌を太陽にかざしてみれば,真っ赤に流れる,僕の血潮。みんなみんな生きているんだ友達なんだ。私はしあわせ,昔も今もこれからも。あたしなんだか死なないような気がするの。あったまてっかてーか,さえてぴっかぴーか,それがどーした,僕ドラえもん。ぱーまんぱーまんぱーまん。おばけのきゅーたろー。きゅーぴーごーるどA。ファイトーいっぱーつ。24時間戦えますか。ゼナで元気,レッドブル。翼を授ける。といった言葉達がわあっと頭を流れ通り過ぎていったのである。
残ったのは言葉にできない満足感。



